【『月刊潮』2005年4月号】
戦後史における「創価学会報道」の謀略性E
デマ報道の典型、事実無根の「東村山事件」。
〜「事実」を識別できない「自称ジャーナリスト」が犯した“誤認”の数々。
■「万引き」を認めた朝木議員
1995年7月13日、東村山市議会。この日、朝木明代市議(当時)が万引き事件で書類送検されたとのニュースが新聞報道され、議会内でちょっとした騒ぎになっていた。
同じ日に開かれた「総務委員会」。第2委員会室では3つの陳情をめぐって、断続的に質疑がなされていた。出席委員は、自民、共産、社会、公明各議員のほか、矢野穂積議員など総勢七人。
午前中、定住外国人に対する地方選挙への参政権に関する議会決議を求める陳情のほか、市民センターにエレベータを設置することを求める陳情が諮られたあと、矢野穂積議員の辞職を求める陳情を検討する予定になっていた。
同年4月に初当選した矢野は、朝木明代の娘・直子が「当選返上」した結果繰り上げ当選していたため、“議席譲渡”は無効として、市民からの辞職要求に晒されていた。この日、議事進行役の総務委員長が当事者である矢野の退室を求めたが、矢野は「出るわけにはいかない」と頑張った。
委員会は、昼休みを挟んで再開したものの、矢野があくまでも退室を拒んだため、午後3時すぎに休憩、“自然流会”となった。ハプニングが起きたのは、その直後のことだったという。
このとき矢野の議員生命にかかわる議題だけに、同じ会派の朝木明代も傍聴席に姿を見せていた。いわば「時」の人である。そばを通りかかったある議員が、明代に向かってこう問いかけた。
「万引きで送検されたんだって?」
すると明代は強い口調で即座に言い返したという。
「なによ、送検されたくらいで。まるで鬼の首でもとったみたいに。現行犯逮捕もできないくせに‥‥。だいたい、品物を取り返しておいて問題にするほうがおかしいのよ」
明代の万引き事件は6月19日に発生。店主夫人が追いかけて詰問したため、明代は盗んだTシャツを地面に落とす“失態”を演じていた。Tシャツは確かに店に戻ったが、明代は書類送検された翌日、議会場で万引きの事実そのものを認めていたわけである。
実際にやりとりを耳にしていたのは、総務委員会の委員や傍聴人など10人近い人々。明代は完全に「墓穴」を掘っていた。この話は単行本『民主主義汚染〜東村山市議転落と日本の暗黒』(宇留嶋瑞郎著、長崎出版)に詳しく出てくる。今回あらためて関係者に取材したところ、「事実」であることが再確認できた。当時、総務委員会に属していた人物はこう語る。
「そのとき(朝木議員は)『実害がなかったからいいじゃないの』とムキになって反論していました。彼女がそう言ったので、誰かが『じゃあ返したのか』と聞くと『そうよ』と答えたのが聞こえました。やっぱり(万引きを)やってたんじゃないかと私たちは笑ったわけです。ぼろを出しちゃったわけですから」
だが、書類送検される前段階の警察の取り調べで、明代は否認を繰り返し、虚偽のレシートを提出。送検された当日には、「今日の調書はなかったことにしてください」と係官に懇願する始末だった。
その「供述調書」は、起訴されれば、検察側の証拠として法廷に提出されるはずだったが、明代が地検出頭の直前に「転落死」したことで、日の目を見ることはついになかった。
■対照的な二冊の本
冒頭の事実は、「転落死事件」の背景を見る上で極めて重要な意味をもつ。前出の『民主主義汚染』では、そうした背景が客観的事実をもとに丹念に描かれる。同書が活写しているのは、東村山市議転落死事件の“キーパーソン”となった矢野穂積議員の「本質」であり、その結果、事件の真相をあますところなく明かしている。
筆者の宇留嶋は、明代の転落死から2、3カ月すぎたころ取材を開始。当初、週刊誌によって一斉に“学会陰謀説”なるものが流布され、宇留嶋自身、半ばそのことを「鵜呑みにしていた」という。だが、取材を進めるうちに週刊誌報道とのギャップに戸惑いを感じ始めたらしい。万引き事件についても、「万引きした側を擁護こそすれ、被害者を擁護するマスコミはどこにもない」現状に、「素朴な疑問」を感じたと書いている。
『民主主義汚染』を手にすると、「小さな正義」という章が設けられていることに気づく。取材で東村山署を訪ねた宇留嶋に、副署長の千葉英司が言葉少なにつぶやいたときの“キーワード”ともいえる言葉だ。
「いまは何もお話しできませんが、どうか夫妻の“小さな正義”だけは信じてやってください」
朝木明代が万引きしたことを目撃し警察に届けた「被害者」のはずの洋品店主らが、明代や矢野らの開き直りによって“ウソつき夫婦”にされていた。さらに明代の死後、市民らからさらなるバッシングの対象とされた。「どこかが狂っている」。宇留嶋の出発点はここにある。
だが、狂ってしまった「理由」も、10年後の今となっては明らかである。自らの保身のために事実を捻じ曲げ、“煽動”に走った市議会議員と、その“どす黒い意図”にいとも簡単に乗せられた、「事実」を識別できない、無能力な“自称ジャーナリスト”。「乙骨正生」がその典型である。
取材を重ねた宇留嶋は振り返る。
「彼(乙骨)は所詮、矢野の描いたストーリーに沿って描いているだけですからね。ふつうに取材すれば当然知りえたであろう事実を書いていませんし、(転落した朝木市議が)救急車を断った話にしても、事実そのものをなかったことにしようとしています。客観的なスタンスとは到底いえません。転落死事件や万引き事件の結論については、ほとんどウソといっていいぐらいの代物ではないでしょうか」
乙骨が処女出版した『怪死〜東村山女性市議転落死事件』(教育史料出版会)なる書物がある。取材のイロハをわきまえない“事実誤認”だらけの、むしろ『怪書』と呼ぶほうがふさわしい代物だった。
■ずさんな取材と意図的結論
同書で、乙骨は“学会謀略説”なるものを煽るだけ煽ってみせている。さらに核心部分で次のようなくだりも登場する。
「私の取材に対して(※ハンバーガーショップの)店長は、店長と(※駐車場の)管理人との間で、『救急車を呼びましょうか』との会話があったことは認めているが、店長が朝木さんに『救急車を呼びましょうか』と問いかけた事実はないと話している。この点は、事件性の有無を判断する上で重要なポイントなので、私をはじめマスコミの取材陣は、二度、三度と確認したが、店長は、そうした事実はないと断言している」
乙骨はこう書き、市議の自殺説はおかしいと訴えた。だが、「2度、3度確認」し、店長が「断言」しているはずの「事件性の有無を判断する上で重要なポイント」が、本誌が取材すると、電話一本でいとも簡単に否定される。店のオーナーはこう言うのだ。
「そのとき、(朝木さんは)まだしっかりした意識があり、『救急車を呼びましょうか』と尋ねると『いいです』とはっきり断ったと店長から聞いています。(窓口となった私は)マスコミの取材にもそのように説明してきましたし、(朝木さんが)断ったという事実は、警察の調書にもはっきり書いてあるはずです」
つまり、乙骨の本に書かれている「重要なポイント」なるもの自体、その中身は“不正確”極まりない。
事実この件については、学会側が『週刊新潮』を訴えて勝訴した裁判で、乙骨が新潮側証人として出廷した際(2000年12月)にもやりとりされている。乙骨はこのとき、だれが現場にいたのかさえ把握していなかったことを露呈。相手方代理人からの尋問に対し、「アルバイト店員が(朝木さんに)聞いたなんていう話は初めて聞きます」「初めて聞いて驚きました」などと連発し、最重要部分における≪ずさんな取材≫を認めざるをえなかった。要するに、明代が救急車を断った事実自体、何の変わりもなかったのである。
さらに万引き事件についても、矢野らの主張をそのまま「代弁」しているだけだ。乙骨は洋品店主に直接会って話を聞いたというが、「絶対に見間違いではない」と答える店主らに対し、「なぜこれほど朝木さんを敵視するのか、私にはよく分からない」などと書いている。
その根拠は「朝木さんと触れていての人格等々から、朝木さんがそのようなことをするとは思えない」(尋問調書)との彼の“主観”と“推測”のみである。
そもそも店の商品を盗まれ(しかも2度目)、目撃者が複数(計4人)いるにもかかわらず、万引きの事実さえ認めようとしない「市議会議員」を相手に、逆に“ウソつき”呼ばわりされていた店主が、相手に好感をもつことなどありえようか。
いったい、この男の「取材」とは何なのか。所詮、“取材ごっこ”“ジャーナリストごっこ”といわれても仕方あるまい。
さらに、転落事件当時の『週刊新潮』でも、彼はしたり顔でこうコメントしている。「私はいろいろな面で今回の事件は納得がいきません。この事件の背後にはどうしても創価学会の影を感じるんです」。事実が判明していない段階での、“ジャーナリスト”の口から出たコメントである。裏づけとなる事実はなく、「憶測」だけでものを述べていることがよく理解いただけよう。
結局、乙骨本の特徴は、「事実」に基づかず、「憶測」と「願望」をもとに、都合のいい断片だけを拾い集めて組み立てているところにある。「事実」を探求するはずのジャーナリストが、絶対にとってはならない手法・態度である。
それでいて、自著の前書き部分ではこう“ノロシ”を上げてみせる。
「客観的に事実を積み上げることで、事件の背景にある何かが見えてくるかもしれないというのが本書執筆のスタンスである」
“羊頭狗肉”の極みもここまでくると、滑稽さを通り越す。それでも同一事件を扱った二つの作品(『民主主義汚染』『怪死』)は、「事実」をもとに真相に迫ろうとした“本来のジャーナリスト”の仕事と、絶対に陥ってはいけない「似非」のそれとを対照できるという意味では、“後学の徒”の「よき教材」を提供したことだけは間違いない。
■進行する二つの裁判
東村山転落死事件をめぐる十数件もの裁判で、これまで“学会謀略説”なるものはそのすべてにおいて否定され、矢野らの主張は“粉砕”されてきた。
だが、矢野や朝木直子らは、敗訴した裁判においても、判決文中の“片言隻句”を取り出すなどして「完全勝訴した」などの“虚偽宣伝”を繰り返している。これに「便乗」したのが、同じ顔ぶれの“煽動加担者”、乙骨正生が発行する小冊子である。
昨年1月、確たる証拠もなく、「やはり『他殺』だった朝木明代東村山市議怪死事件」なるタイトルで、乙骨、矢野、直子の三人の座談会記事を掲載。学会側は翌2月、名誉毀損で東京地裁に提訴した。
今夏にも一審判決が出る見込みだが、乙骨にとっては“5度目の断罪”となる可能性が高い。
さらに注目すべき裁判がもう一つある。事件当時、東村山署の副署長として万引き事件および転落死事件捜査の陣頭指揮をとった千葉英司が起こした裁判である。
矢野らの“煽動”によって、“ずさん捜査”と批判されてきた千葉は、批判だけでなく、矢野らによって4件もの民事訴訟と1件の刑事告発を受け、被告の座につかされてきたという。矢野らはそのすべてに敗訴してきたが、一昨年、矢野と直子がさらなる“デマ本”を発刊。自らの刑事生命をかけて捜査にあたった千葉は、退職後の昨年3月、矢野と朝木直子を相手に名誉毀損で提訴に及んだ。訴状にこう記されている。
「母親の異変に最初に気づき、マスコミには『創価学会に殺された』とコメントした被告朝木(※直子)が、母親の転落死に関して警察、検察の捜査を回避するという常識的に考えても不可解な態度は何を意味しているのか、本法廷で明らかにしたい」
さらにこう綴っている。
「本事件に関連し、14件に及ぶ裁判があり、確定した聖教新聞裁判ほか10件の判決すべてが被告らの主張した『創価学会関与の冤罪および殺人説』は否定され敗訴し、被告らによる原告が杜撰な捜査をしたとの主張は否定されたものである。(中略)被告らは、上記判決の存在を熟知していながら、あえて意図的に敗訴判決を歪曲し、法廷では通用しない証拠を羅列し、あかたも事実であるかのように法廷の外から疑惑を蒸し返した。その意味で、これは捜査機関や裁判所の判断を現実的に無効にしようとする企て、司法社会に対し挑戦する反社会的なものであり、より一層悪質といわざるをえない」
訴状の文面からは、“コツコツと歩き回ることを難儀と思わないたたき上げの元刑事”(『民主主義汚染』)の怒りが読みとれる。
事件から10年。この二つの裁判は、一連の東村山事件の「策謀」に“ケリ”をつける「法廷」になりうる。とともに、“煽動”に走った公職者や乙骨に象徴される“失格記者”も、その社会的生命を問われる機会となるべきであろう。
(文中敬称略)