【『月刊潮』2004年12月号】
戦後史における「創価学会報道」の謀略性A
自らの恐喝事件を隠すため山崎正友が狂奔した「メディア工作」。
顧問先を恐喝した前代未聞の「元弁護士」の“暴走の足跡“を追う。
■仕組まれた情報提供
80年6月――。奇妙な取材は一時間近くつづいていた。人を小バカにしたような態度の40代半ばの小太りの男。その男を「先生」と呼ぶ“メガネをかけた長身の若い男”。二人が創価学会の学生部の組織や問題行動について奇妙な“問答”を行っているのを、かたわらで所在なげにメモをとる一人の記者。
当時、日本共産党機関紙「赤旗」日曜版編集部の記者だった下里正樹(67)の目には、その問答は、あらかじめシナリオの決まった“やらせ”の演出にしか映っていなかった。話の内容も、さして関心をそそるものではなかった。
この小太りの中年男こそ、何を隠そう、後に恐喝容疑で逮捕されることになる元弁護士の山崎正友である。
場所は靖国神社(東京・千代田区)にほど近いフェヤーモントホテル(現在、廃業)の一室。下里はこの日、一切質問しない、二人の会話を記録するだけという特殊な条件下で「取材」を許されていた。きっかけは一本の“奇妙な電話”である。
かけてきたのは当時、晩成社の社長兼編集長だった和多田進。この出版社は、前年から創価学会批判本を相次いで出版。このころも『創価学会・公明党の研究』(段勲編)という書物を刊行したばかりだった。前年秋、山崎が手下の原島嵩を使って聖教新聞社から盗み出した大量の内部資料を使って編集された代物だったが、すでに和多田は山崎と親密な関係にあったようだ。山崎のエージェントとして動いているという噂は関係者の間にも洩れ伝わっていた。
下里の取材手帳にはこんな記録が残っている。「ここに電話をすれば、大事な情報が入ります」。そのころ増えていた数多い情報提供の一つにすぎなかったという。下里にとっては、晩成社から将棋の本を数冊出していた関係で、顔なじみの編集者でもあった和多田の依頼に応じてみようとの軽い気持ちからだった。
教えられた番号にかけてみると、見ず知らずの男が出てきて、2〜3時間後、取材の時間と場所が指定されたという。このとき、電話の相手は、宮本顕治宅盗聴事件に関する話などおくびにも出していない。創価学会の最高幹部の一人に会わせるとの話だったらしいが、男が提示してきた条件は、質問は一切してはならないという変わったものだった。下里が回想する。
「なぜそんな手の込んだことをしたかというと、下里個人にではなく、赤旗記者というものに対して警戒心があったのだと思います。自分は安全なところにいながら、組織の情報を伝えようとしているんだなということはわかりました」
下里の取材メモには、「6月14日」につづけて「FA」の記載がある。これは14日にフェヤーモントホテルで取材したという記述なのか、14日に約束を交わし、別の日にフェヤーモントホテルで会ったという意味なのか、もはや判然としないらしい。いずれにせよ、14日に“奇妙な電話”があったことだけは間違いない事実という。
「以来、不眠不休だったという記憶があります。私は一睡もしていなかったですね。フラフラになっていました。いろんなものが立てつづいて起きたせいか、日付の区切りがないまま、取材メモがざっと連なった形になっているんです。14日から17日にかけてのことが時系列的に整理できていないのです」
それにしても、二人の“問答”は珍妙なものだったらしい。
「最初は学生部はどうしたとか、シーホースがどうしたとか、私の知らないことばかり問答していたわけです。そのことをさも重大な情報として、こっちに伝えたいがために問答していることはわかったのですが、退屈だなあと思って聞いていたら、最後にドカンと来たんです」
当時、赤旗編集部内にあって、下里は創価学会をテーマにしていたわけではない。ただ、「日本の黒幕」という赤旗連載企画を担当した特捜班の一員として、多少の名を知られる存在であったことは確かだった。
■赤旗記者のウラ取り
「何をこの野郎っ、お前、黙って済むと思っているのかっ!」
客室内に怒声が響きわたった。“問答”の最終盤に出てきた宮本宅盗聴事件の話は、それまで退屈そうに聞いていた下里の気持ちを一変させたという。聞き手役の若い男が「宮本先生の盗聴事件もこのグループがやったんですよね」と質問すると、山崎がこともなげに「そうだよ」と答えた。その瞬間、往年の“赤旗スクープ記者”の神経は総立ちになったという。下里本人が回想する。
「盗聴事件の話が出たあとはまさに“主従逆転”、こちらが一方的に押しまくる格好になりました。相手は初対面だし、逃げられたらすべて終わり。返答次第では警察に突き出してやらなきゃいかんという気持ちが働いたことは事実です。自分でも顔色が変わるのがわかりましたね。殺気立った様子が相手にも伝わったようです。山崎はタジタジとしていました。私もふだんはにこにことした感じですが、本気になると人間がまったく変わります。当時の取材メモを見ていて、そのときの様子をまざまざと思い起こしましたよ」
“やらせ”のはずだった取材は、その後“真剣勝負”の場と化した。下里の執拗な追及に対し、山崎は宮本宅の半径200〜300メートル以内に盗聴会話を傍受するアジト(賃貸マンション)を借りていたことや具体的な実行犯の名前を白状したという。
「それを聞いた瞬間、これは本物だと思ったんですよ、ガセじゃないと」
下里は“コンパスで円を描いた”などの具体的な供述に真実性を直感したという。だが、紙面化するには客観的な裏付けをとる必要があった。
「アジトを割り出すのがいかに困難だったか。場所はどこだと聞いても、山崎は自分もよく知らないみたいなことを言うわけで。選挙に間に合わせないかん、この間の割り出しで決まるということで、必死に頑張った。2日かけて突きとめましたよ。割り出せなかったらあの記事は書けませんでした」
取材の詳報は、選挙直前に配達される赤旗日曜版に2面にわたって掲載された。
■山崎の“拡声器”と化した記者たち
もともと宮本宅盗聴事件は、6月2日発売(首都圏)の『週刊ポスト』(13日号)で創価学会関与説が初めてリークされた。さらに恐喝事件の“道具”となった5日発売の『現代』(7月号)でも、内藤国夫が裏付けも取らずに同じ内容を活字にしていた(内藤は同月末毎日新聞社を退社)。いずれも山崎の意図的リークであったことが明らかになっている。
山崎の自著によれば、学会側が自分を詐欺罪や恐喝罪で告訴しようとしている話を友人から聞いたのが「6月8日」。赤旗の下里記者に接触するのはそれからわずか1週間後のことだ。
そもそも山崎のリークを検証抜きに掲載した『週刊ポスト』や『現代』などは論外だろう。なかでも『ポスト』記者の段勲は山崎のエージェント的な存在に堕していたようだ。北林芳典著『邪智顛倒』によると、段は山崎の意に即した記事を書くために、当時、山崎から50万円を受け取っていたことがその後の裁判で明らかになっているという。
一方の内藤国夫も、「記者はマイクロフォンのようなもの」(=他人の声を増幅する器械の意)が持論で、山崎の提供する情報の裏づけをとることもなく、この頃からひたすら山崎専用の“拡声器”に徹し始めた。これが一時的にせよ大新聞の“花形記者”といわれた男かと驚かざるをえない。
いずれにせよ、赤旗編集部は上記の記者や編集者らとは異なり、山崎の言い分を頭から鵜呑みにはせず、裏付けをとろうと動いたことは事実だ。そのことは、「アジトを割り出せなかったら、記事にはできなかっただろう」と回想する下里の言葉にも集約される。
だが実際に記事化するには、あまりにも日程が窮屈すぎた。同日選挙に間に合わせるという“至上命題”にとらわれるあまり、結局のところ、裏付け作業が行き届かず、とんだ「誤報」を生んでしまったからだ。
赤旗紙上で、実行犯の首謀者として実名報道されていた一人の人物(北林芳典氏)は、その後の裁判の結果からも、実はこの事件にまったく関与していなかったことが判明している。しかも同氏は当時、『現代宗教研究』編集長の立場にあり、同誌八〇年七月号で「創価学会キャンペーンを演出する男」というタイトルで山崎の実態を詳細に暴き、山崎本人に恐れられていた。
そこには山崎の会社が3日間で5億円もの融通手形を切るなど多額の「手形詐欺」を行っていた事実のほか、山崎自ら白い手袋をはめて経理書類を改竄していた事実など、およそ“正義の告発者”にふさわしくない「実態」が赤裸々に暴露されていた。いわば山崎と真っ向から対立する立場にあったために“意図的に”盗聴犯の中に加えられていたのである。
この点、日本共産党は山崎の真意を見抜けず“踊らされた”といわれても仕方あるまい。盗聴の「被害者」であったはずの共産党は、焦るあまり、無実の人間を盗聴犯にデッチ上げてしまったのである。
■失敗に終わった朝日新聞工作
ここで当時の背景を振り返っておこう。80年4月半ば、山崎の事実上経営していた冷凍食品会社シーホースは40数億円もの負債をかかえて倒産。資金繰りなどをめぐって顧問先の学会を恐喝(既遂)し、さらなる恐喝を5月末に企てた(未遂)。学会側は6月5日、警視庁に告訴の意思を伝えたが、たまたま同じ月の22日にわが国初の衆参同日選挙が行われる予定になっていた。
すでに参院選は5月30日、衆院選は6月2日に公示されていたので、山崎が最初のリーク記事を『週刊ポスト』に載せたとき、どちらの選挙も本番入りしていたことになる。
もともと、朝日新聞社、文藝春秋、日本共産党を学会批判に立ち向かわせることで「学会包囲網」をつくろうと目論んでいた山崎流の戦略からすれば、自ら行った宮本宅盗聴事件を効果的に暴露することが、共産党を学会攻撃に向かわせる有効な手段と考えていたことは間違いない。
一方で、内藤国夫を取り込み、『週刊文春』にもルートをつくっていた。実際この時期、6月12日発売号から、連載手記「学会最高幹部七人の内部告発」が始まっている。以来、毎週33枚にもおよぶ原稿を山崎は巧みに書き上げた。
その後も連載中の『週刊文春』において、「いまこそ明かす宮本顕治邸盗聴事件の真相」(8月7日発売)、「池田側近から見た創共協定の真実」(8月14日発売)を執筆するなど、共産党を学会攻撃に向かわせるべく躍起になっていた。
同時期、山崎は朝日新聞社にも工作をしかけている。朝日の“看板記者”として知られた本多勝一編集委員(当時)の取材メモによると、「6月18日 ホテルグランドパレス」で、同記者の取材を受けている。本多記者のメモには「1時ごろチェックイン」の記述も残されているという。
取材メモは大学ノート八ページにおよぶが、大半が山崎の経歴、宗門との経緯、創共協定などに費やされていて、肝心の盗聴事件については、最終ページに「トーチョー事件」「コレはDirectに名を出さないこと」との記述を残したまま中途半端な形で終わっている。「トーチョー事件」の具体的なやりとりは何も書かれていないのだ。同じ日、共産党はこの件の記者会見まで行っており、事件が社会的に注目されていた時期だけに、いかにも不自然に映る。ヒントとなるのは、北林著『邪智顛倒』に書かれた次の記述であろう。
「山崎の話がヤマ場を過ぎたところで、本多氏に同道していた社会部記者が私の書いた『現代宗教研究』第十四号を山崎に見せた。山崎の目は『現代宗教研究』第14号にクギづけとなり、ひと言も発することなく、あげく、真っ青になって手をガタガタをふるわせ始めたということである」
『現代宗教研究』には、弁護士でありながら山崎が土地ころがしで4億もの不正な金を得ていた事実や、自らの会社を使って3日間で5億円の融通手形を切るなど多額の「手形詐欺」を行った事実などが詳細な一覧表とともに記載されていた。朝日記者はこの事実をすでに知っていたのだ。そのため山崎は真っ青になってガタガタ震えた、あるいはこれに近い事実があったものと推認される。
本多記者にも確認してみたが、20年以上前のことなので「記憶には残っていない」という。いずれにせよ、山崎は朝日工作には完全に“失敗”したわけだ。
■破綻した日々の生活
当時、山崎は「偽名」を使って都内のホテルを渡り歩く日々が続いていた。赤旗の下里記者は、山崎に頼まれ、何度か移動を手伝ったことがある。ハイヤーを呼び、ホテルの正面玄関ではなく、裏玄関に止めさせ、下里が助手席に乗り込むと、山崎は外から見えないようにいつも後部座席のシートに不恰好な姿で這いつくばっていたという。山崎は「命を狙われている」などと説明していたが、それでいながらポケットからはしばしば男性用避妊具が出てくるなど、愛人らとの接触は頻繁だったようだ。
当時の下里メモには、山崎と接したときの第一印象がこう書かれている。「この男の暴走を止める人間はこの世のなかにいないだろう」。“衝動的”な山崎の行動をとらえている。
その後、別企画の取材に奔走していた下里のもとに、突然、山崎から連絡が入ったのは最初に会ってから2、3カ月すぎた秋のことだったという。「隠れ家」を探してほしいとの依頼を受け、最終的に応じた。代々木近くに借りた賃貸マンションの一室。いまも忘れられない光景がある。山崎が突然、正座して自分の頭に手をかけ、カツラを取り外したときのことだ。「下里さん、長い間騙していてご免なさい。僕の正体はこういう者です」。唐突な“変身”ぶりに、言葉を失ったと語る。
だが、“大スクープ”のきっかけとなった取材者と被取材者の“奇妙な関係”もその秋を最後に終わる。翌年1月、山崎が警視庁に逮捕されたというニュースが流れたころ、下里は、共同作業人となる次の赤旗連載『悪魔の飽食』の準備に追われていたからだ。
ちなみに、フェヤーモントホテルに近い「ホテルグランドパレス」は、山崎が『週刊新潮』記者に工作した場所としても知られる。3億円恐喝事件の公判で、山崎のかつての部下は、検察側の質問に対し、次のように証言している(以下『東京スポーツ』81年10月4日号より引用)。
「53年の4月と7月の2回にわたり、山崎さんに頼まれ、私が週刊新潮に資料を渡しました。『できるだけ夜中遅く行って、新潮社の守衛に渡してこい』といわれ、そうしました。そのあと、私は井上という偽名で、週刊新潮の松田さんと喫茶店で会うように山崎さんにいわれ、会いました。そのころ、山崎さんは藤井という偽名を使っていました」
再び新潮記者に会ったときのくだりは次のとおりだ。
「山崎さんが『(話し合いの場所として)ホテルの部屋を三日くらいとっておけ』といったので、グランドパレスに部屋をとり、そこで松田さん、戸田さん(注・週刊新潮記者)と会いました。いろいろ質問され、自分の情報だけでは話せないこともあるので、同じホテルの別の部屋をとっている山崎さんを内線電話で呼び、連絡をとりながら話しました。時々イライラした山崎さん本人が、直接電話で松田さんらと話すこともありました」
山崎はこのとき、受話器にハンカチを当てて声色をかえるなどの芸当も演じている。ちなみにここに出てくる“松田”は、93年から2001年まで『週刊新潮』編集長をつとめた松田宏(現常務取締役)のことである。
松田はこのころから山崎とじっこんの間柄となった。『幻影の時代』の著者であるダニエル・ブーアスティンが指摘した“疑似イベント”(=偽りの事実)を、数多く「製造」した典型的な記者の一人である。
(文中敬称略)