日記

2012/04/23(Mon)
まるで溝口敦のダミーの域を出ない「化城の人々」
 あまり逆宣伝をするのも馬鹿馬鹿しいのだが、そのくらいにひどい内容なので取り上げる。「週刊ポスト」に連載中の佐野眞一著「化城の人々〜池田大作と創価学会の80年」と題するノンフィクションのことである。現在、同連載は牧口初代会長の時代をすぎて、戸田第2代会長の折伏大行進の時代くらいにある。いずれ池田第3代会長に記述が移っていくと思われるが、その視点はすでに明確に固まっているように見受けられる。
 一つは戸田第2代会長について、「煮ても焼いても食えない男」「人の気を引くことに関しては本職の詐欺師以上にうまい」などと書いているところからも明らかなとおり、ちょっと型破りだが、いかにも胡散臭い人物として描かれている点である。さらに池田名誉会長については、「池田にあるのはコンプレックスの裏返しの強烈な上昇志向と際限のない支配欲、それにのっぺりした凡庸さだけ」とか、「無教養なクセに大言壮語癖だけは師匠の戸田譲りの池田」などの記述に明らかだろう。さらに「傲岸不遜の見本のような池田大作」とも書いているが、およそ必要な取材というものをへないで脳内だけで打ち立てられた人物像であることを、まともな学会員であればだれしもが感じるだろう。こうした筆者なりの人物像は、実は溝口敦というライターが過去に執筆した『池田大作「権力者」の構造』で描かれているような人物像とほぼ同一のものにすぎない。
 最初に対象人物に対する先入観があり、それに事実をまぶしていくような手法は、およそ真実にたどりつくための方法とも思えない。創価学会の戦後の歴史は、ひとつの民衆運動史であることは間違いないが、民衆ひとりひとりの胸の内や会員であり続ける理由などについて、解き明かそうとする意欲も感じられない。所詮は創価学会の発展を「宗教システム」という表層的なものに求めているだけである。
 真実を描くことは難しい。ノンフィクションといっても、所詮はある題材をもとに、書き手のレベルがそこに投影されているにすぎない。その意味では、「化城の人々」は、筆者自身の物の見方の反映にすぎないものだ。
 この連載の内容を額面通りに受けとめれば、戦後の教団をつくったのは、実際は詐欺師のような抜け目のない人物であり、現在の学会員は「傲岸不遜」で「無教養」で「凡庸」なだけの人物を指導者として尊敬している“バカな人間集団”ということになる。後世のまともな歴史家が目にすれば、「いろいろ調べてはいるが、本質はピント外れ」と思うような代物である。ノンフィクション作家である著者の『底』が割れたような連載といえよう。