日記

2011/09/28(Wed)
印象操作に走るしかない“悩乱教授”の末期症状
 創価学会員と称する香川大学の男性教授が自分の日記を持っていかれたなどとして教団幹部の関係者を民事提訴したのは今年1月。最近それらと同種の裁判を次々に起こし、自分のブログなどで躍起になって宣伝に努めているようだが、お粗末な限りである。
 訴状などを読んでみると、もともとの経緯は、同教授と妻の離婚問題がきっかけとなっており、教授は妻が教団にマインドコントロールされている結果と受け取り、教団を“逆恨み”している格好だ。教授は妻を説得するために書きためた日記を妻に渡したところ、その妻が「夫の信心がおかしくなった」と先輩幹部に相談し、現在の事態に発展したらしい。
 もともとは同教授とその妻との2人の関係の問題であり、それをことさら教団の責任に“転嫁”するのは、これまでの脱会者に見られる共通の傾向といってよい。要するに、自分の責任を認めることができない矮小な人物は、すべてを他者に責任転嫁するしか行動がとれないということにすぎない。
 そうした個人的恨みが原因になっていることが明らかなので、まともなマスコミ人であればあるほど、こうしたネタには近づかない。取り上げるのは、いつもの脱会者グループ(乙骨某など)であり、要するに、脱会者・不満分子がある事柄に乗じて、一時的に“集合”しているにすぎない。しかもネットを媒介にしたバーチャルな側面がそうした傾向を助長しているようだ。
 この教授のお粗末な点は、事実認識能力のレベルに明らかだ。教団が拉致未遂や殺害を常習しているかのような“印象操作”を繰り返し、その例として、95年の東村山市議転落死事件をあげる。だがその証拠を示すことは、できない。デマ発信者の“受け売り”をしているだけにすぎず、そうした自分の姿を客観的に見ることすらできないらしい。
 すでに物故した希代のペテン師山崎正友は、裁判は全知力を用いた格闘である旨の文章を書いたことがある。晩年、元弁護士だった山崎は、裁判外でマスコミや世論向けの行動をとることを慎んでいた。ペテン師とはいえ、それはそれで元法律家としての見識だったといえよう。
 ところが上記の高倉某という人物は、訴訟を使って「別の目的」のために行動しているようにしか受け取れない。周りにはすでにアンチの人間がたむろし、その中でもてはやされ、ピエロとして動いている自分の滑稽さもわからないようである。いうなれば、“訴権の濫用”の極みだ。
 今後ともこういう人間は出現するだろう。哀れなのは本人自身であり、より気の毒なのはそれに巻き込まれた罪なき家族である。