2011/08/16(
Tue
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「原発推進論者」の大誤報を打った「ガセネタ屋」の読解能力
名誉棄損裁判でたびたび敗訴を繰り返し(すでに6件の敗訴が確定)、“事実を書けないジャーナリスト”として定評のある乙骨某が、池田名誉会長のことを「原発推進論者」などと誹謗中傷し、その根拠として、アーノルド・トインビーとの対談集『21世紀への対話』(1975年発刊)を挙げていることは知っている人は知っている。だが、肝心のその対談集を手にとってみると、そこに記述されている名誉会長の発言は、「原子力の平和利用」を条件付きで認めるというその時点における立場の表明にすぎず、それだけで「原発推進論者」などと断定することには無理があることを当コラムでは指摘した。
ところが、それから6年後の81年には、名誉会長は米国スリーマイル島の原発事故(79年)などをへて、「核エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとい平和利用であっても、即時に中止すべきであると考えます」(『大白蓮華』1981年3月号、64ページ)との考えを表明していたことがこのほど明らかとなった。
上記の乙骨某は、「スリーマイル島の原発事故やチェルノブイリ原発事故、さらには東海村JOCの臨界事故などを目の当たりにしても、池田氏は原発容認の姿勢を変えなかったのである」(フォーラム21・6月号)などと勝手に書き飛ばしていたが、まったくの事実誤認、あるいは≪誤報≫であったことが明らかである。
もともと“事実を書けないジャーナリスト”なので、致し方ない面もあるだろう。これらの文章の存在にもかかわらず、「原発推進論者」などと書けるのは乙骨某だけだ。以下は月刊誌『大白蓮華』に掲載された該当部分だが、こうした意見表明が公明党の政策に現実的に反映されなかったのは、また別の問題といわざるをえない。
「とくに核エネルギーの問題は、たんに資源の有限性というだけにとどまらず、たとえ、資源は残されていっても、消費した結果として生ずる廃棄物が人類の生存を危うくしてしまう場合ですから、なおさら深刻です。石油資源の場合も、その使用済みの廃棄物質が大気や水を汚染しますが、核エネルギーの場合は、その何倍も大きな危険性を含んでいます。
私は、資源全般の消費に対する考え方の転換が全人類に徹底されなければならないと訴えるとともに、とくに核エネルギーの問題は、過去に人類がぶつかってきたいかなる問題とも質を異にしていることに気づくべきだと言いたいのです。つまり、蓄積されている量がある限界まで達しなければ無害か、有害であっても致命的ではないのが、核以外の物質の汚染でした。ところが、核エネルギーの廃棄物の場合は、それがどんなに少量であろうと、必ず致命的な害を及ぼすのです。
その意味で、核エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとい平和利用であっても、即時に中止すべきであると考えます。そして、もし、絶対的で、永久的に安全な廃棄物の処理法が発見されれば、そのときはじめて利用を再開してもよいと思います。しかし、それまでは、全面的に中止し、危険な廃棄物を生じないエネルギー資源の開発、循環可能で枯渇の恐れのないエネルギー資源の開発に、現代科学の総力を傾注して取り組むべきであると思うのです」 (連載3 闇は暁を求めて 〜 現代の危機に対する西洋と東洋の対話)
ところが、それから6年後の81年には、名誉会長は米国スリーマイル島の原発事故(79年)などをへて、「核エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとい平和利用であっても、即時に中止すべきであると考えます」(『大白蓮華』1981年3月号、64ページ)との考えを表明していたことがこのほど明らかとなった。
上記の乙骨某は、「スリーマイル島の原発事故やチェルノブイリ原発事故、さらには東海村JOCの臨界事故などを目の当たりにしても、池田氏は原発容認の姿勢を変えなかったのである」(フォーラム21・6月号)などと勝手に書き飛ばしていたが、まったくの事実誤認、あるいは≪誤報≫であったことが明らかである。
もともと“事実を書けないジャーナリスト”なので、致し方ない面もあるだろう。これらの文章の存在にもかかわらず、「原発推進論者」などと書けるのは乙骨某だけだ。以下は月刊誌『大白蓮華』に掲載された該当部分だが、こうした意見表明が公明党の政策に現実的に反映されなかったのは、また別の問題といわざるをえない。
「とくに核エネルギーの問題は、たんに資源の有限性というだけにとどまらず、たとえ、資源は残されていっても、消費した結果として生ずる廃棄物が人類の生存を危うくしてしまう場合ですから、なおさら深刻です。石油資源の場合も、その使用済みの廃棄物質が大気や水を汚染しますが、核エネルギーの場合は、その何倍も大きな危険性を含んでいます。
私は、資源全般の消費に対する考え方の転換が全人類に徹底されなければならないと訴えるとともに、とくに核エネルギーの問題は、過去に人類がぶつかってきたいかなる問題とも質を異にしていることに気づくべきだと言いたいのです。つまり、蓄積されている量がある限界まで達しなければ無害か、有害であっても致命的ではないのが、核以外の物質の汚染でした。ところが、核エネルギーの廃棄物の場合は、それがどんなに少量であろうと、必ず致命的な害を及ぼすのです。
その意味で、核エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとい平和利用であっても、即時に中止すべきであると考えます。そして、もし、絶対的で、永久的に安全な廃棄物の処理法が発見されれば、そのときはじめて利用を再開してもよいと思います。しかし、それまでは、全面的に中止し、危険な廃棄物を生じないエネルギー資源の開発、循環可能で枯渇の恐れのないエネルギー資源の開発に、現代科学の総力を傾注して取り組むべきであると思うのです」 (連載3 闇は暁を求めて 〜 現代の危機に対する西洋と東洋の対話)