2011/08/10(
Wed
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「池田名誉会長は原発推進派」というレッテルについて
創価学会の池田名誉会長が歴史学者のアーノルド・トインビーと対談した『21世紀への対話』が発刊されたのは1975年3月。その中に「原子力の平和利用」という項目があって、ここでの名誉会長による発言内容が、ネット世論の一部などで「原発推進派だった」などのレッテルばりにつながっているようだ。
一読すると、「原子力の平和利用」と題する項目に「原子力発電」という文字はまったくなく、原子力の平和利用を条件つきで容認するといった主張にすぎない。具体的には、「原子力が、新たな、将来性あるエネルギー源として平和的に利用されることは、喜ばしいことだと思います」、さらに「石油、石炭に代わる動力源として、大いに期待できる」「原子力の平和利用それ自体には異存はない」といった3カ所。
問題は、アンチ創価学会の人間が引用するのはここまでで、実際はこの項目に掲載されている文章には、次のような≪前提条件≫が明確に書かれている(アンチはこの部分を意図的にか取り上げないことがある)。
すなわち、「よく知られているように、原子力は非常に危険な、諸刃の剣ともいうべきもの」、さらに「取り扱い上の問題、燃料廃棄の問題など、石油、石炭とは比較にならないほど多くの未解決の問題点を抱えています」「その困難、障害を除去するために、今後、非常な研究と努力とが必要とされるでしょう」といった部分である。
これらを総合的に読めば、手放しで「原子力の平和利用」を容認しているわけではなく、むしろ多くの前提条件が将来的にクリアされることを前提にして、「平和利用」への期待を述べていることが明らかである。
冒頭の書籍が世に出た1975年といえば、日本では原子力発電が実用化されてからすでに10年近くがすぎており、この段階ではまだ世界でも大きな事故は起きていなかった。
一方、米国スリーマイル島の原発事故が起きたのはそれから4年後の79年3月。それ以降の記述では、「原子力エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとえ平和利用であっても、慎重に考慮すべき」(『闇は暁を求めて』81年)、「今日の石油に代わるエネルギー源として、原子力に期待することは難しい」(『21世紀への警鐘』84年)など、池田名誉会長の主張のトーンが明確に変化したことは、意味のないことではない。
当初から、原子力は「非常に危険な、諸刃の剣」との認識をもちつつも、それを平和的に活用することへの期待を述べた段階と、それはまったく難しいと認識が変化した段階との違いと思われる。前提条件として当時挙げられていた「燃料廃棄の問題」も、いまもってまったく解決されていない。よく言われる「トイレのないマンションに住んでいるようなもの」との状態は、何も変わっていないのだ。
結論として、池田名誉会長が、原子力発電を推進すべきと積極的に述べたことは、以上の記述を見る限りでは、一度もない。当初の記述は、化石燃料にかわる新たなエネルギー源として期待できると述べたレベルにとどまり、しかも早い段階で、その考えを実態に合わせて修正している。
そうした思考を現実政治のなかでどのように位置づけ取り入れたか、あるいは逆だったかは、むしろ公明党サイドの問題であろう。付け加えておけば、ソ連の原子力発電なら天まで持ち上げ、米国の原発導入には反対などというご都合主義的な主張と比べれば、よほど道理にかなっており、自然であったことは間違いない。
一読すると、「原子力の平和利用」と題する項目に「原子力発電」という文字はまったくなく、原子力の平和利用を条件つきで容認するといった主張にすぎない。具体的には、「原子力が、新たな、将来性あるエネルギー源として平和的に利用されることは、喜ばしいことだと思います」、さらに「石油、石炭に代わる動力源として、大いに期待できる」「原子力の平和利用それ自体には異存はない」といった3カ所。
問題は、アンチ創価学会の人間が引用するのはここまでで、実際はこの項目に掲載されている文章には、次のような≪前提条件≫が明確に書かれている(アンチはこの部分を意図的にか取り上げないことがある)。
すなわち、「よく知られているように、原子力は非常に危険な、諸刃の剣ともいうべきもの」、さらに「取り扱い上の問題、燃料廃棄の問題など、石油、石炭とは比較にならないほど多くの未解決の問題点を抱えています」「その困難、障害を除去するために、今後、非常な研究と努力とが必要とされるでしょう」といった部分である。
これらを総合的に読めば、手放しで「原子力の平和利用」を容認しているわけではなく、むしろ多くの前提条件が将来的にクリアされることを前提にして、「平和利用」への期待を述べていることが明らかである。
冒頭の書籍が世に出た1975年といえば、日本では原子力発電が実用化されてからすでに10年近くがすぎており、この段階ではまだ世界でも大きな事故は起きていなかった。
一方、米国スリーマイル島の原発事故が起きたのはそれから4年後の79年3月。それ以降の記述では、「原子力エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとえ平和利用であっても、慎重に考慮すべき」(『闇は暁を求めて』81年)、「今日の石油に代わるエネルギー源として、原子力に期待することは難しい」(『21世紀への警鐘』84年)など、池田名誉会長の主張のトーンが明確に変化したことは、意味のないことではない。
当初から、原子力は「非常に危険な、諸刃の剣」との認識をもちつつも、それを平和的に活用することへの期待を述べた段階と、それはまったく難しいと認識が変化した段階との違いと思われる。前提条件として当時挙げられていた「燃料廃棄の問題」も、いまもってまったく解決されていない。よく言われる「トイレのないマンションに住んでいるようなもの」との状態は、何も変わっていないのだ。
結論として、池田名誉会長が、原子力発電を推進すべきと積極的に述べたことは、以上の記述を見る限りでは、一度もない。当初の記述は、化石燃料にかわる新たなエネルギー源として期待できると述べたレベルにとどまり、しかも早い段階で、その考えを実態に合わせて修正している。
そうした思考を現実政治のなかでどのように位置づけ取り入れたか、あるいは逆だったかは、むしろ公明党サイドの問題であろう。付け加えておけば、ソ連の原子力発電なら天まで持ち上げ、米国の原発導入には反対などというご都合主義的な主張と比べれば、よほど道理にかなっており、自然であったことは間違いない。