2006/05/13(
Sat
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「週刊新潮・編集部」の実態(上)
このほど「週刊新潮」がいい加減な記事を掲載したようだが、以下は「週刊新潮」編集部に勤務したことのある「元記者」が、とある「公開法廷」の場において提出していた「陳述書」の一部である。編集部内の実態を示す興味深い内容を多く含んでいるので、ここに謹んで「引用」させていただく。
1 はじめに
私は、2003年×月×日から週刊新潮の契約記者として勤務していましたが、200×年×月××日に辞めました。
辞めた理由は、たとえ食べるに困っても、人様を言論において傷付けたり、揶揄したりする仕事には携わりたくないと考えたからです。特に、自らの信念と反した揶揄ありきの取材には強い嫌悪感を覚えました。週刊新潮には「捏造体質」があり、自分自身が人生において関わるべき職場ではないと思われました。このような嫌悪感を覚えている人は新潮社の社内に、私以外のほかにもおります。
2 編集方法
週刊新潮の場合、金曜日の正午に一週間の業務が始まります。この段階で、編集部員は全員が新潮社別館2階の週刊新潮編集部に集合します。ここで、早川清週刊新潮編集長がマイクによってその週の取材内容と担当記者を発表します。おおよそ5分以内のこのマイクを通じた放送が終了すると同時に、担当デスク(アンカーマン)と取材記者(データマン)は個別に打ち合わせに入り、取材方針を打ち合わせます。
この場合、通常2ページ以上の特集記事候補ではデスク一人に対して記者が2人以上配属されます。それ以外の小さな記事、週刊新潮においてはこれらを「ワイドネタ」と呼びますが、この「ワイドネタ」においては通常はデスク一人に対して記者一人がワンセットとなります。この段階から地方に出張に行くものはデスクから基本出張手当、一人あたり16万円を現金で支給されます。沖縄や北海道、九州地方など地方出張でも特に遠方に関しては18万円が支給されます。金曜日の午後に取材が一斉に開始され、土曜日の夕方5時からのデスク会議までに各取材記者は取材内容にめどをつけ、担当デスクに報告します。
土曜日午後5時のデスク会議は編集部奥にあるテレビの前のソファーにデスクが集合し、早川清編集長を前にして取材経過の報告を行います。この報告を聞き、その時点での早川編集長による取材継続か断念か、また取材内容の追加指示などが出され、会議終了後にデスクは各配属記者に連絡されます。こうしたデスク会議は翌日曜日の午後1時をめどに再度開かれ、取材内容の報告と編集方針などが確認されます。日曜日の夕方になると報告を踏まえ、早川編集長から取材内容に対する仮見出しが張り出され、その見出しに内容に特に異存のある者は早川編集長に直言することができます。
取材は基本的には「内折り」と「外折り」という2回の締め切りで行います。「内折り」の締め切りは日曜日で、月曜日の早朝までに印刷所に入稿し、「外折り」の締め切りは月曜日で、火曜日の早朝までに印刷所に入稿します。当該取材内容が「内折り」か「外折り」かは取材で時間がかかりそうかなどがおおまかな目安ですが、特集候補などより広範囲で多角的な取材を必要とするものはおおむね「外折り」の締め切り設定として、取材に時間をかけます。
3 取材体質
週刊新潮では、私を含め若い記者はデータマンと呼ばれ、担当デスク(アンカーマン)の指示で取材をし、その結果をデータ原稿として担当デスクに提出します。そしてデスクは、何人かのデータマンが提出した原稿をもとに記事に仕上げます。
取材開始後に編集長が編集部内に記事の仮見出しを掲示しますが、すべてはこの仮見出しに沿った記事を仕上げるために集中されます。
デスクは、あらかじめ描いた記事の構図(ストーリー)に合致したデータ原稿を求めます。構図に反するデータ原稿は排斥され、構図に合致したものだけが取り上げられることが多く、データ原稿に記載された取材対象者の発言を改ざんしてまで、都合よく記事が作成されることもありました。私が取材した相手の発言とは明らかに相反する発言が相手方の発言として記事に記載され、取材相手に申し訳ない気持ちで一杯になったこともありました。
今回の記事については、私の担当ではなかったこと等から、取材の具体的経緯については知らないのですが、この記事に関するタイトルが発表され、その中で「4000万円云々」というおどろおどろしいタイトルが踊っているのを見て、一抹の不安を覚えました。そして刷り上ってきた記事を見ますと、見出しで「4000万円」と確定的な数字を出す根拠が明確に、十分な説得力をもって示されているとは思えず、さらに「これは大丈夫なのだろうか」と不安を募らせました。○○○○衆院議員とパチンコ業界とのさまざまな噂については私自身が第三者の話として見聞したことはありましたが、そのいずれもせいぜい噂の域を出ず、とても記事化できるものではなさそうなものでした。
政治家はとかく、さまざまな噂の渦中にとり置かれるものであり、そのひとつひとつをきちんと検証していけば、そこにはさまざまな権謀術数や妬みや嫉妬が絡んできます。そうしたさまざまな人々のさまざまな思惑をはらんだ情報はとかく尾ひれがつきやすく、それゆえに、政治家のスキャンダルを記事化する場合にはとにかく、第三者にきちんと説得力をもって提示できる物証の入手とその検証が第一義に必要であると私は認識しておりました。それゆえに、果たしてこの記事にはそうした裏付けがあるのだろうかと、自らが所属する組織の記事でありながらも心配しておりました。
そんななか、ジャーナリストの○○○氏、早川清編集長、△△△氏が刑事告訴されたと聞き及んだころ、四方田隆副部長に近い編集部員から、四方田副部長も、「○○がブツがあるというので信頼していたが、いざとなったらブツがなくて、非常に困っている」旨を伝えられたことがありました。
4 記事作成の傾向
週刊新潮だけでなく、多くの週刊誌では短期間により多くの情報を盛り込むという物理的制約からアンカーマン制度を構築しております。特に週刊新潮はこのアンカーマン制度を構築したパイオニア週刊誌としても知られ、多くのデータマンがそろえた原稿を、アンカーマンであるデスクが一本の記事に仕上げるものです。
しかしながら、この方式では、現場で実際に取材対象者に会わないデスクが記事を作成するために、現場のニュアンスや取材対象者の心理状況などが実感、皮膚感覚としてデスクに伝わりにくい面が否めません。
なかには自らのソースできちんと取材をかけ、データマンと一体となってきめ細かな取材を展開するデスクもおりますが、基本的にはほとんどのデスクは取材指示が甘く、その記事構成においても信頼できないことが多いため、すでに嫌気が差しておりました。
週刊誌の記者としての適性では新聞記者の適性とはまた異なる、文章としての面白さや記事の展開の面白さなどが重宝される面があるように思いますが、この「新潮ジャーナリズム」を標榜される人々は、そうした文芸的主観と関心が先にたち、取材が始まる前からこう書けば面白いといった結論先にありきのプロップが先行し、その予想プロップに沿った話をとにかく相手にしゃべらせてこいといった明に暗に、その傾向が強いので辟易しておりました。
こうした勧善懲悪の構図をどう組み立てるかという結論先にありきのような取材では、いかに現場のデータマンであるわれわれがその構図とは逆のベクトルに働きそうな話や談話をとってきたとしても、当然に記事からは排斥され、そのデータ原稿のなかから、デスクが書こうと思う、ストーリーに適合するものだけが引き抜かれ、一本の記事のなかに、調和を図ったモザイクのように組み込まれていくことになります。
結果として、週刊新潮の記事は、通称「コメントつなぎ」と呼ばれるもので、人のコメントをつなげた体裁のものとなっていますが、実際に、そのような「コメント」を掲載のニュアンスどおりに正確に取得していることのほうが少ないといっても良いと思います。
特に、「匿名のコメント」はその傾向が顕著であり、「○○関係者」などといった紹介されている人物の「コメント」などは、8割〜9割方は新潮で作成しているものです。
例えば、こちらから質問をしたことに対して、「そういう噂もありますよね」といった相槌を得れば、「そういう話を確かに聞いています」というコメントにしてしまう訳です。私はこれもまた、ひとつの捏造記事であると捉えております。「0」を「1」にするのは論外ですが、「1」を「10」に展開することもまた、捏造であると私は認識しております。
時にデスクはデータ原稿のニュアンスをも入朱していきます。弱いニュアンスの語尾を断定調に改ざんするなどし、そうしたものを一本の記事のインパクトを強めるという目的のなかで多くのデータについてしばしばそうしたことを行います。これはときに、語調を統一するといった文章上の技術の問題ではなく、発言者のトーンの捏造でもあると私には思われます。ひとつひとつのデータ原稿に加えられた小さなニュアンスやトーンの改ざんは、一本の原稿となったときにさらに大きなゆがみとなり、それはときに事実の正確さの追求とはまったく異なったものになるように思われます。
文芸上、それが週刊誌に必要なのだということであれば、それは「読み物」であり、週刊誌は自らが昨今、標榜してやまない「報道」という看板を下ろすべきでしょう。
実際に現場で取材をしていれば、それほど都合よくデスクの構想に沿った話や談話ばかりが出てくるわけではありません。しかし「読ませんかな」「売らんかな」のために時に、発言者のニュアンスやトーンの正確さを結果的に犠牲にしてしまうことは、現在の週刊誌の持つ大きな問題点と課題であると思われます。
新聞もまた同様であるように、週刊誌もまた当然に商業媒体としてひとつのビジネスであり、出版社や新聞社における事業です。しかし、週刊誌が報道媒体であることを声高に主張し、その地位向上と報道媒体としての認知を一層推し進めたいと考えるのであれば、まずは自らがはらむそうした内在的な問題性をきちんと組織的に改善する必要があると考えます。しかし、週刊新潮社内では、裁判に訴えられたり、敗訴したりしたとしても社会的地位の評価を下げません。発行部数さえ維持できれば、民事裁判で敗訴しても十分に元が取れるという考え方です。(つづく)
1 はじめに
私は、2003年×月×日から週刊新潮の契約記者として勤務していましたが、200×年×月××日に辞めました。
辞めた理由は、たとえ食べるに困っても、人様を言論において傷付けたり、揶揄したりする仕事には携わりたくないと考えたからです。特に、自らの信念と反した揶揄ありきの取材には強い嫌悪感を覚えました。週刊新潮には「捏造体質」があり、自分自身が人生において関わるべき職場ではないと思われました。このような嫌悪感を覚えている人は新潮社の社内に、私以外のほかにもおります。
2 編集方法
週刊新潮の場合、金曜日の正午に一週間の業務が始まります。この段階で、編集部員は全員が新潮社別館2階の週刊新潮編集部に集合します。ここで、早川清週刊新潮編集長がマイクによってその週の取材内容と担当記者を発表します。おおよそ5分以内のこのマイクを通じた放送が終了すると同時に、担当デスク(アンカーマン)と取材記者(データマン)は個別に打ち合わせに入り、取材方針を打ち合わせます。
この場合、通常2ページ以上の特集記事候補ではデスク一人に対して記者が2人以上配属されます。それ以外の小さな記事、週刊新潮においてはこれらを「ワイドネタ」と呼びますが、この「ワイドネタ」においては通常はデスク一人に対して記者一人がワンセットとなります。この段階から地方に出張に行くものはデスクから基本出張手当、一人あたり16万円を現金で支給されます。沖縄や北海道、九州地方など地方出張でも特に遠方に関しては18万円が支給されます。金曜日の午後に取材が一斉に開始され、土曜日の夕方5時からのデスク会議までに各取材記者は取材内容にめどをつけ、担当デスクに報告します。
土曜日午後5時のデスク会議は編集部奥にあるテレビの前のソファーにデスクが集合し、早川清編集長を前にして取材経過の報告を行います。この報告を聞き、その時点での早川編集長による取材継続か断念か、また取材内容の追加指示などが出され、会議終了後にデスクは各配属記者に連絡されます。こうしたデスク会議は翌日曜日の午後1時をめどに再度開かれ、取材内容の報告と編集方針などが確認されます。日曜日の夕方になると報告を踏まえ、早川編集長から取材内容に対する仮見出しが張り出され、その見出しに内容に特に異存のある者は早川編集長に直言することができます。
取材は基本的には「内折り」と「外折り」という2回の締め切りで行います。「内折り」の締め切りは日曜日で、月曜日の早朝までに印刷所に入稿し、「外折り」の締め切りは月曜日で、火曜日の早朝までに印刷所に入稿します。当該取材内容が「内折り」か「外折り」かは取材で時間がかかりそうかなどがおおまかな目安ですが、特集候補などより広範囲で多角的な取材を必要とするものはおおむね「外折り」の締め切り設定として、取材に時間をかけます。
3 取材体質
週刊新潮では、私を含め若い記者はデータマンと呼ばれ、担当デスク(アンカーマン)の指示で取材をし、その結果をデータ原稿として担当デスクに提出します。そしてデスクは、何人かのデータマンが提出した原稿をもとに記事に仕上げます。
取材開始後に編集長が編集部内に記事の仮見出しを掲示しますが、すべてはこの仮見出しに沿った記事を仕上げるために集中されます。
デスクは、あらかじめ描いた記事の構図(ストーリー)に合致したデータ原稿を求めます。構図に反するデータ原稿は排斥され、構図に合致したものだけが取り上げられることが多く、データ原稿に記載された取材対象者の発言を改ざんしてまで、都合よく記事が作成されることもありました。私が取材した相手の発言とは明らかに相反する発言が相手方の発言として記事に記載され、取材相手に申し訳ない気持ちで一杯になったこともありました。
今回の記事については、私の担当ではなかったこと等から、取材の具体的経緯については知らないのですが、この記事に関するタイトルが発表され、その中で「4000万円云々」というおどろおどろしいタイトルが踊っているのを見て、一抹の不安を覚えました。そして刷り上ってきた記事を見ますと、見出しで「4000万円」と確定的な数字を出す根拠が明確に、十分な説得力をもって示されているとは思えず、さらに「これは大丈夫なのだろうか」と不安を募らせました。○○○○衆院議員とパチンコ業界とのさまざまな噂については私自身が第三者の話として見聞したことはありましたが、そのいずれもせいぜい噂の域を出ず、とても記事化できるものではなさそうなものでした。
政治家はとかく、さまざまな噂の渦中にとり置かれるものであり、そのひとつひとつをきちんと検証していけば、そこにはさまざまな権謀術数や妬みや嫉妬が絡んできます。そうしたさまざまな人々のさまざまな思惑をはらんだ情報はとかく尾ひれがつきやすく、それゆえに、政治家のスキャンダルを記事化する場合にはとにかく、第三者にきちんと説得力をもって提示できる物証の入手とその検証が第一義に必要であると私は認識しておりました。それゆえに、果たしてこの記事にはそうした裏付けがあるのだろうかと、自らが所属する組織の記事でありながらも心配しておりました。
そんななか、ジャーナリストの○○○氏、早川清編集長、△△△氏が刑事告訴されたと聞き及んだころ、四方田隆副部長に近い編集部員から、四方田副部長も、「○○がブツがあるというので信頼していたが、いざとなったらブツがなくて、非常に困っている」旨を伝えられたことがありました。
4 記事作成の傾向
週刊新潮だけでなく、多くの週刊誌では短期間により多くの情報を盛り込むという物理的制約からアンカーマン制度を構築しております。特に週刊新潮はこのアンカーマン制度を構築したパイオニア週刊誌としても知られ、多くのデータマンがそろえた原稿を、アンカーマンであるデスクが一本の記事に仕上げるものです。
しかしながら、この方式では、現場で実際に取材対象者に会わないデスクが記事を作成するために、現場のニュアンスや取材対象者の心理状況などが実感、皮膚感覚としてデスクに伝わりにくい面が否めません。
なかには自らのソースできちんと取材をかけ、データマンと一体となってきめ細かな取材を展開するデスクもおりますが、基本的にはほとんどのデスクは取材指示が甘く、その記事構成においても信頼できないことが多いため、すでに嫌気が差しておりました。
週刊誌の記者としての適性では新聞記者の適性とはまた異なる、文章としての面白さや記事の展開の面白さなどが重宝される面があるように思いますが、この「新潮ジャーナリズム」を標榜される人々は、そうした文芸的主観と関心が先にたち、取材が始まる前からこう書けば面白いといった結論先にありきのプロップが先行し、その予想プロップに沿った話をとにかく相手にしゃべらせてこいといった明に暗に、その傾向が強いので辟易しておりました。
こうした勧善懲悪の構図をどう組み立てるかという結論先にありきのような取材では、いかに現場のデータマンであるわれわれがその構図とは逆のベクトルに働きそうな話や談話をとってきたとしても、当然に記事からは排斥され、そのデータ原稿のなかから、デスクが書こうと思う、ストーリーに適合するものだけが引き抜かれ、一本の記事のなかに、調和を図ったモザイクのように組み込まれていくことになります。
結果として、週刊新潮の記事は、通称「コメントつなぎ」と呼ばれるもので、人のコメントをつなげた体裁のものとなっていますが、実際に、そのような「コメント」を掲載のニュアンスどおりに正確に取得していることのほうが少ないといっても良いと思います。
特に、「匿名のコメント」はその傾向が顕著であり、「○○関係者」などといった紹介されている人物の「コメント」などは、8割〜9割方は新潮で作成しているものです。
例えば、こちらから質問をしたことに対して、「そういう噂もありますよね」といった相槌を得れば、「そういう話を確かに聞いています」というコメントにしてしまう訳です。私はこれもまた、ひとつの捏造記事であると捉えております。「0」を「1」にするのは論外ですが、「1」を「10」に展開することもまた、捏造であると私は認識しております。
時にデスクはデータ原稿のニュアンスをも入朱していきます。弱いニュアンスの語尾を断定調に改ざんするなどし、そうしたものを一本の記事のインパクトを強めるという目的のなかで多くのデータについてしばしばそうしたことを行います。これはときに、語調を統一するといった文章上の技術の問題ではなく、発言者のトーンの捏造でもあると私には思われます。ひとつひとつのデータ原稿に加えられた小さなニュアンスやトーンの改ざんは、一本の原稿となったときにさらに大きなゆがみとなり、それはときに事実の正確さの追求とはまったく異なったものになるように思われます。
文芸上、それが週刊誌に必要なのだということであれば、それは「読み物」であり、週刊誌は自らが昨今、標榜してやまない「報道」という看板を下ろすべきでしょう。
実際に現場で取材をしていれば、それほど都合よくデスクの構想に沿った話や談話ばかりが出てくるわけではありません。しかし「読ませんかな」「売らんかな」のために時に、発言者のニュアンスやトーンの正確さを結果的に犠牲にしてしまうことは、現在の週刊誌の持つ大きな問題点と課題であると思われます。
新聞もまた同様であるように、週刊誌もまた当然に商業媒体としてひとつのビジネスであり、出版社や新聞社における事業です。しかし、週刊誌が報道媒体であることを声高に主張し、その地位向上と報道媒体としての認知を一層推し進めたいと考えるのであれば、まずは自らがはらむそうした内在的な問題性をきちんと組織的に改善する必要があると考えます。しかし、週刊新潮社内では、裁判に訴えられたり、敗訴したりしたとしても社会的地位の評価を下げません。発行部数さえ維持できれば、民事裁判で敗訴しても十分に元が取れるという考え方です。(つづく)