【教団で何が起きているのか】
元本部職員3人が所属した「足軽会」の実態
■対話という名の威圧的言動
サイレント・アピールなる信濃町での抗議活動、座談会と称する政治集会――。創価学会の元本部職員3人を中心とする社会的運動ともみなされているようだが、その実態はどのようなものなのか。これまであまり触れられてこなかった部分にメスを入れる。
東京地裁14階にある記録閲覧室――。教団の元本部職員であった小平秀一、滝川清志、野口裕介ら(当初はほか1人を加えた4人で提訴)の起こした地位確認訴訟(懲戒解雇無効の訴え)の裁判記録を請求すると、資料は大きな山が二つになった。ここには彼らが職場などでなした実態の証拠が綴られている。
彼らのインターネット上のブログを読むと、しばしば「対話」を求めて教団関係者に電話をかけたり、手紙を届けたりといった場面が出てくる。なのに相手はそれに応じない。池田名誉会長が何より重んじているのが一人を大切にする姿勢であり、その手段が「対話」であるにもかかわらず、教団幹部はそれに応じようとしない。教団は変質してしまった。だが我々は団結して師匠のために戦わなければならない。
基本的なトーンはそのようなものの繰り返しである。だがそうした彼らの主張が、およそ「真相」とは異なった一面的な主張であることは、これらの記録をしばらく読んでいれば、すぐに明らかになってくるだろう。
彼らが職場から貸与された携帯電話などを使って、業務外でそうした対話要求活動をつづけた回数は、わずか10カ月間で2000回を超えていた。当初の原告の4人で単純に割ると、10カ月で一人あたり500回。それを10で割ると、1カ月あたり一人50回、そのような行為をつづけたことになる。そうした電話記録の証拠なども、膨大な裁判記録の中に綴られている。
およそ異常ともいえるこうした執拗な言動は何から生まれたのか。その背景は後に譲ることにしたいが、2014年11月に出された東京地裁判決では、そのような行動を指して、「それ自体度を超したものであって」と認定し、具体的に次のように指摘している。
「原告らは、面談を要求する行為が創価学会の精神に従い、忠実に対話を求めたものであるとも主張するが、原告らの面談要求等は、前記説示のとおり、性急かつ度を超したものであり、被告組織内において許容されるものということはできない」(東京地裁判決P19)
彼らの対話を要求する前提には、要求が満たされるまで要請活動を続けるとして、それまでは一切従わない姿勢を明確にしていたことも判決では指摘されていた。つまり、お互いに歩み寄るための対話ではなく、自分たちの要求を100%聞き入れるまで、このような行動を続けるということが彼らの前提だった。これでは「対話」とは名ばかりの、実態は“威圧的言動”とみなされて仕方がない。
裁判では、彼らは一審において、何の関係もない池田名誉会長とその子息を証人として申請するという、およそ常識外れの行動もとった。そうした要求は裁判所によってはねつけられたが、彼らは当事者である本人尋問すらも行わず、一審で完全敗訴。当初4人いた中の一人は一審で裁判に見切りをつけ、高裁からは残りの3人だけで戦うことになる。そうして3人の≪完全敗訴≫が確定したのは昨年10月。最高裁判所から上告棄却と上告不受理の決定が下されたことによる。
■発端は川崎学生部
元職員の3人は、小生の記憶に残るだけでも、『週刊ダイヤモンド』『週刊朝日』『週刊金曜日』などさまざまなメディアにこれまで露出してきた。その記事の中で、「足軽会」という名称を目にした記憶がない。「足軽会」――。これが教団内部に生まれた一つの分派活動の母体であることは知る人ぞ知る。彼らはその事実を敢えて表に出したくないということだろうが、「足軽会」の名称は、彼らが懲戒解雇の無効を訴えた裁判の一審判決にも次のように明確に出てくる。
「X(※実際は実名)が中心となって平成14年11月ごろ結成した足軽会は、上記Aの集団的な問題行動を起こす要因となったもの‥」(東京地裁判決P11)
上記のXは、3人とは別人物である。3人(あるいは当初提訴の4人)は教団の本部職員だったが、Xは民間人である。彼らは同時期に川崎市の学生部幹部として共に活動した間柄である。彼らの所属する任意グループ「足軽会」が結成されたのは2002年11月。当初のメンバーは12人ほどで、中心者Xは、メンバーに対し、「抜けることは許されない」「抜けることを認める同志は叩き潰す」といった脅迫めいたメールを送っていた。この時期、いったい何があったのか。
一つはXらが男子部移行を命じられたという事実であろう。当時Xらは20代半ばから後半。教団内の慣例としては、学生部幹部が男子部に移行するには珍しくない年齢にも思えたが、当人らにとっては意に沿わない事情もあったようだ。
それまでの川崎学生部は、折伏のできない学生部メンバーを幹部らで囲んで強く責めたり、方針に批判的なメンバーがいれば恣意的に“活動停止”を言い渡すなど、およそ教団の全体方針にそぐわないような活動を展開していた面があったらしい。当時Xは総県副書記長という役職であり、正役職ではなかったにもかかわらず、正役職者に匹敵する「実権」を振るっていたとの証言も残されている。地元学生部間でトラブルが顕在化するのはその後のことだ。
代替わりした地元学生部幹部が、彼らが大手を振っていたころを指して「暗黒時代」と評したことで、足軽会のメンバーがそれに噛みつき、地元学生部間でのトラブルと化したのだ。Xらの世代の学生部はひどい時代だったという率直な気持ちを表明した言葉と、自分たちの時代を“全否定”されたと受け取った旧世代(主に足軽会のメンバーら)との対立が発火点となった。
結局この件は、地元の上部組織が乗り出して、“喧嘩両成敗”という形で決着を図ることが試みられた。お互いに行き過ぎがあったことを率直に認め、反省するという趣旨の内容だったが、3人はその書面への署名を最後まで頑なに拒否し、その姿勢を崩さなかった。その結果、自分たちの過ちをまったく認めようとしていないと判断され、その後の役職解任などの「処分」へとつながっていく。
人間、だれしも過ちはあるもので、若い頃はなおさらのことだ。彼らへの懲戒解雇や除名処分は段階的になされたものであって、その間、事態を冷静にとらえ、部員に理不尽な仕打ちを繰り返すなどした「過去」を見つめるための時間もあったはずである。だが、自分たちに一切の非がないという頑なな前提のもとに、「対話」を名目とした威迫活動を職場内で繰り返しただけでなく、現在も、問題を政治にすり替え、自分たちを正当化するための姿勢を変えていない。彼らに足りなかったのは、青年としての「素直さ」であったと思われる。
■100メートル圏内に固まって住む
足軽会の組織図というものがある。それによると、足軽会の会長はXではない。実質的な中心者であるXはあくまで表に出ない形で、裏から操る立場にいたようだ。こうした姿をみて、私は過去に取材したことのある、心理学上における一つの類型と共通する傾向を感じ取った。その類型は人の弱みにつけこんで相手をコントロールする術にたけていて、独りよがりの行動をとることでも知られている。
それはともかく、彼らの生活実態を調べてみると、たいへん興味深い事実が見えてくる。現在、Xの自宅(川崎市)を中心に、メンバーらが寄り添って暮らしているという実態についてだ。
彼らはいずれも100メートル圏内(時間にして徒歩3分以内の距離)に住んでいて、いつでも集まれる範囲内にいる。いずれもXの自宅の周辺に、後から次々と引っ越してきた形だ。また元職員の3人は、教団を解雇されたにもかかわらず、Xの周辺に「持ち家」を購入している。私はこの状態を見て、新興宗教などに象徴的に見られる、一種の≪疑似家族集団の形成≫に近いのではないかと考えた。
3人は今もXの強い影響下にあることはほぼ間違いない。これらの居住実態の現実に加え、それに類似する証言はほかにもある。まず彼らは同じような髪型をしていることが特徴的と指摘されている。彼らの写真を雑誌メディアなどで見たことがあるが、判で押したようなベッカム・ヘアが特徴だ。聞いてみると、その理由はXが同様の髪型をしているからであり、3人はその模倣をしているにすぎないらしい。さらに服の色についても、同じような好みで共通しているという。これは彼らの内面世界を映し出す言動として、興味深いものだ。
私が「足軽会」について、カルト的な側面があると指摘するのは、上記のような理由を含んでいる。
■全員「4000万円」規模の戸建て住宅を新築
現在、信濃町本部でのサイレント・アピール活動などを行う元職員の3人の居住実態を調べてみると、さまざまな状況が見えてくる。すでに神奈川県川崎市内の100メートル圏内に固まって住んでいる状況を指摘したが、それはアパートなどの間借りではなく、全員が約5年以内に新築した一戸建て住宅である。いずれも、足軽会の実質的な中心者=Xの周りに、寄り添うように集住したもので、時系列で示すと以下のようになる。
2008年11月 |
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Xが新築住宅を購入し、一家で当地へ転居 |
2011年 8月 |
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野口裕介がXの徒歩3分の距離に新築一戸建て(3階建て)を購入 |
2012年 9月 |
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小平秀一・滝川清志がXの4軒隣に土地を購入 |
同 年 10月 |
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【3人が教団から懲戒解雇処分】 |
同 年 12月 |
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【3人が解雇無効訴えの裁判を提起】 |
2013年 4月 |
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小平秀一・滝川清志が土地の上にそれぞれ2階建住宅を新築 |
2014年 6月 |
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【3人が教団から除名処分】 |
2015年10月 |
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【3人の完全敗訴が最高裁で確定】 |
普通にこれらの経緯をながめてみると、さまざまな疑問がわいてくるはずだ。3人はいずれも「4000万円」規模の借り入れのもとに土地・建物を購入しており、毎月の住宅ローンの支払い額はかなりのレベルになっていることは容易に想像がつく。しかも住宅あるいは土地を購入した時期は、教団から懲戒解雇処分を受ける直前あるいはわずか1年前の時期である。いずれも彼らが東京の信濃町本部から地方に転勤している時期に購入されたものだ。そのように職業的状態が不安的な時期に、わざわざ川崎市のXの自宅の周辺に、将来の「定住用」と見込まれる高額の土地・建物の購入に至ったのは、どのような理由からか。
仮に、裁判の打ち合わせなどのために固まって住むほうが便利ということなら、上記の時系列の表から明らかなように、住宅購入は裁判の提起「以前」からすでに始まっていた。さらに打ち合わせ等のためだけに、100メートル圏内にわざわざ集まって住む必要性も薄い。
いまだ定職に就いているふうのない元職員3人は、毎月求められているはずの高額の住宅ローンの支払いをどのようにして行っているのか。疑問は膨らむばかりである。
■質問状に回答なし
3人は将来的に職場を追われる可能性がある時期に、なぜ「4000万円」もの高額の不動産購入に動いたのか。疑問が募ったので、彼らのインターネット上のブログに付いている「メールフォーム」から、9月13日に以下の内容の質問状を送信した。
1、元職員の3人はなぜ固まって居住する必要があったのか。
2、現在、まだ定職に就かれていないようだが、住宅ローンはどうやって支払っているのか。疑問に思っている方も多いようなので、答えてほしい。
3、3人の元職員が現在の住宅を購入(あるいは土地を購入)した時期は、時期的に創価学会職員を解雇される直前であり、そのような不安定な時期に、こうした大規模物件の購入は不安があってふつうは踏み切れないように思われるが、3人全員がそうした行動をとった理由は何か。
これらの質問に対し、16日朝の段階で、返信のメールは何ら得られないままである。
【2016年9月17日掲載】 |