【教団で何が起きているのか】
波田地一派に追随する「田口伸明」の素顔
■多重ハンドル使用疑惑
皆さまには耳慣れない人物の登場かもしれない。ただ現在の波田地グループ(創価学会内部に生じた分派組織)を語る上で、この人物を抜きに語ることはできないとも思われる。ちょうどよい時期と思われるので、この際まとめて説明しておきたい。
実は、インターネットの匿名掲示板「宿坊」で、「大石小石」のハンドルネームを使っているのはこの男(41)だといわれている。さらに「皆本」「ヨッシー」「真実」など、多くのハンドルネームを同時に使いまわす疑惑も指摘されている。
1975年生まれのこの人物は、佐賀県中西部の出身。中学から東京に出てきて、創価一貫教育を受け、創価学会本部職員へ。第一庶務部や広報室などをへて、アーカイブ関係の部署にいたが、ある行動により、教団から懲戒解雇処分(2012年3月)を受けた。さらに翌年5月、反省が見られなかったためであろう。最終的に教団を除名処分となった。この人物、いったい何をやらかしたのか。これまであまり真相は明らかにされてこなかった。
実は小生はこの人物と2007年頃に出会っている。「柳原さんのブログの大ファンなんです」などと、調子のいいことを言って近づいてきた。さらに郷里がたまたま同じ佐賀県であることも、ちゃっかりとアピールしてきた。なかなか正義感の強そうな人物だとの第一印象も持ったが、反面、詳細にはふれないがやや危うい側面を感じたことも事実である。同人と会ったのはその1回きりである。
さて、この人物のやらかしたこととは、広報室時代に培った人脈を使ったのであろう。外部メディアに記事や内部情報を提供するなどしたこととされる。それは一般のどうでもよい内容の記事ではなく、自身の職場の上司クラスを名指しで批判するような内容で、職場で知りえた情報をもとに、教団の内情を主観的に伝え、教団批判の材料を繰り返し提供したという行動だった。そうした≪背信行為≫が発覚したため、彼は職場において事実関係を調査され、最終的に本人が犯行を認めたと聞いている。彼は教団の弁護士らを、当時から「法匪」などと蔑み(宿坊板ではいまも全く同じ言葉がしばしば使われている)、特定の幹部を繰り返し批判していたらしい。
こうした行動がどこの会社・団体であれ、背任的行為に当たることはいうまでもない。家族を養うための飯の種を教団職員として得ていながら、一方では、その教団を陰でコソコソと「覆面」をかぶって批判していた。彼はこんな行動を、平気で行うことのできる人間だ。
■波田地克利と利用し合う関係
さて、本題はこれからだ。創価学会本部職員だった田口伸明が懲戒解雇された後、同人に対して真っ先に支援の手を差し伸べたのが、実はこのサイトの話題の中心・波田地克利(58)のグループだった。同グループのオフ会と称する勉強会(=分派活動)に、田口は二度にわたって講師として呼ばれている。いずれも解雇された翌月の2012年4月のことで、会場は中部と中四国だった。このとき田口は実名では登場せず、使った偽名は「大久保新平」というものだったらしい。新平は、彼の故郷の偉人、江藤新平にあやかったようだ。
波田地グループは、この田口を支援するために、10人前後を限定とした専用ツイッターまでわざわざ発足させたという。同人の解雇直後からこのような支援体制を組んだ経緯から見る限り、それ以前からも田口は波田地らの影響を強く受けていたことがうかがえる。
その後、積み重なる分派活動や組織内組織の構築で波田地自身も除名処分となるが、その時期は、田口が除名処分を受けた同じ年の暮れのことだった。つまり2人は同じ2013年に、仲良く除名処分となった間柄である。そのためか、2人の仲間意識は一層強くなった可能性がある(波田地の正式除名は2014年4月)。
この田口、いまでは「宿坊」板にさまざまな名前で登場するといわれている。教団職員時代に陰でコソコソと幹部批判の原稿を書くなどしたノウハウを生かし、いまでは匿名掲示板でこれまた「覆面」をかぶったまま、さまざま匿名で投稿しているようだ。どこまでいっても名前を出そうとしない、いや出すことのできない人物なのである。
近年の教団をめぐる報道においては、マスコミへの情報提供も彼が中心となって動いてきたようだ。くだんの「フライデー」の記事も、同人が関わっていたことが波田地本人の口から明らかにされている。
そうした彼らの根底にあるのが、「我こそ真の池田門下」「本物の弟子たち」といった自負心というから、その社会常識の欠如と思い上がりのはなはだしさ、さらに精神の倒錯ぶりには驚かざるをえない。
私の記憶では、過去に一度だけ会った際、彼は「布団屋の倅です」と殊勝に語っていた。佐賀県には、息子の将来の活躍を楽しみにしながら、中学時代から苦労して東京に送り出した両親らがいたはずだが、郷里のご両親はさぞかし嘆かれているにちがいない。
■山崎・原島「2人組」の系譜
歴史をたどると、第一次宗門問題を陰で主導し、池田会長辞任の流れをつくった一人は、教団の弁護士・山崎正友であった。教団から禄を食んでいる時代から、陰で教団攻撃を行っていた行為は、田口伸明と何ら変わらない。山崎がおかしくなったのは30歳代後半からと見られるが、田口がおかしくなっていくのもその年代だ。
一方で、原島嵩は山崎にその本質を見抜かれ、「駒」として使われた一人だった。山崎と原島は互いに利用し合う関係であり、その意味では、波田地と田口の関係とも似ている。
原島は1979(昭和54)年9月、聖教新聞社から段ボール13箱分の内部資料を持ち出し、マスコミに流出させた。現在、田口らがさまざまなメディアに会内資料を提供していると見られるのもまったく同様の行為である。
山崎と原島が創価学会を除名されたのはともに1980(昭和55)年。2人が亡くなるのはこれまた仲良く同じ年の2008年だった。田口伸明と波田地克利が教団を除名となったのはその5年後の2013年、これまた同一の年のことである(波田地の正式除名はその翌年)。
教団の歴史において、山崎と原島は「元祖・2人組」ともいうべき存在である。田口・波田地の2人は、その系譜を継ぐ≪小ぶりな2人組≫とみなされよう。2人が互いに利用し合う関係にあり、田口が波田地グループのたむろするインターネット掲示板で憂さを晴らすしかない状態を見れば、それもうなづけよう。こうした≪小ぶりな2人組≫の行動を、歴史の流れの中でとらえれば、彼らもまた「駒」の中の一つにすぎないという見方もできる。
池田名誉会長がかつて語ったように、反逆者は“結託”するという大きな法則がある。最近も2人組のグループが他の除名者と連携する動きが見られた。「敵は内部から生じる」は歴代会長の遺言だが、その内部の敵の“はしり”が、いますでに眼前に見られる。
1980年、原島嵩は『池田大作先生への手紙』を上梓し、山崎正友も著書を出版した。今回、原島の著作にあらためて目を通してみたが、彼らも当時、教団の刷新を唱え、自己正当化の言辞を繰り返していた。まるでその姿は、波田地・田口の言動そのままに映る。
晩年に向け、山崎・原島の活動は “下火”になっていき、最後はわびしく亡くなった。同じ方程式が、再び繰り返されることになるのだろう。
【2016年9月15日掲載】
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