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オンラインリポート 6

新潮ジャーナリズムの恥部】

「門田隆将」こと門脇護デスクのやったこと

■“非人権雑誌”の尖兵として

 「週刊新潮」編集部の門脇護・副部長(49)は83年4月に新潮社に入社以来、「週刊新潮」編集部に配属され、同じ雑誌で25年間仕事をしてきた。最初は特集班の取材記者、次にコラム班(小さめの記事)の記者をへて、90年4月、特集班のデスク(同誌でいう「デスク」は最終執筆者の意)となり、特集記事の取材・執筆にあたってきた。確認できるものだけでも、これまで4件の名誉毀損裁判で敗訴してきた。いずれも事案としては、かなり悪質なものが目立つ。「週刊新潮」の仕事だから仕方ない面もあるという人もいるかもしれないが、同誌編集部の中ではかなり“特殊な記者”として名が通っていた。ほかにも同人の関わった裁判があるはずだが、とりあえず公(おおやけ)に判明している事案を列記すると以下のようになる。

   報道被害者   提  訴        結   果
  (1)白山信之   94年10月   110万(98年 3月、最高裁)
  (2)創価学会   97年 8月   200万(01年 5月、東京地裁)
  (3)川崎  享   01年 5月   150万(03年10月、最高裁)
  (4)安部  英   96年 7月   300万(05年 6月、最高裁)

  本人の名誉のために付言しておくが、2〜3件の記事をまとめて提訴された事案もあり、賠償金額のすべてが同人の責任ではないケースもある。とはいえ、(1)の事案は、「大石寺『僧侶』を衝突死させた創価学会幹部」という見出しの特集記事が発端で、過失ゼロの交通事故の被害者を逆に「加害者」に仕立てた悪質きわまる記事であった。当時はまだ賠償額も非常に安かった時代なので、今なら1000万円近い賠償が命じられた可能性の高い事案である。(2)は、95年に起きた東村山女性市議転落死に関するもので、「東村山女性市議『転落死』で一気に噴き出た『創価学会』疑惑」というタイトルの記事。裏づけはなく、これまた≪真実性≫のない記事だった。いずれも冤罪の人物・団体を根拠もなしに≪犯人視≫したことが、敗訴の原因となっている。
  (3)は、ルーシーブラックマンさん殺害事件の犯人をこれまた≪誤報≫した事件で、報道被害者が訴えたものだ。(4)は、薬害エイズ問題にからむ記事である。
  このほかにも訴訟の直接当事者ではないが、北海道・函館の狂言夫婦の供述を鵜呑みにした悪質な「デッチ上げ」キャンペーンもあった。これらも、冤罪の特定個人を確たる裏づけもなく、一方的に≪犯人視≫した報道であった。こうして見ていくと、一つの共通するパターンが浮き彫りになってくる。
  たいした根拠もなく、相手(報道被害者)にレッテルをはり、書き飛ばすという安易な手法である。書かれたほうはたまったものではない。だが、抗議にはコワモテで通した。それが、彼独特の持ち味といえた。
  「週刊新潮」はこれまで、「1億2000万円」を超える損害賠償を命じられてきた“稀有な雑誌”として知られる。その中にあって、門脇副部長は、その象徴ともいえる存在だった。

■「富士宮」から洩れた≪捏造・談合≫の証拠

 門脇副部長が、新潮社時代に犯した最大の犯罪的行動は、やはり函館の信平夫婦を使った「でっち上げキャンペーン」に尽きるだろう。それは96年2月から約3年間にもわたって続いた中傷キャンペーンだったが、夫婦が起こした訴えは、「事実的根拠が極めて乏しい」との理由から≪訴権の濫用≫として却下され、01年6月には最高裁で確定した。裁判では、一連のキャンペーンがいかに事実無根の内容であったか、多くの証拠写真や証拠のテープで裏づけられていた。まさに煙のないところに煙を無理矢理に立てたのが、「週刊新潮」のキャンペーンだった。
  よく知られることだが、この記事の先鞭をつけたのが、当時、編集部「次長」であった門脇護デスクである。同デスクは96年2月に北海道の函館を訪れ、直接、夫婦に取材を行っている。そのとき取材の手引きをした人物は、この事件の「背景」を知るうえで重要な手がかりを示している。妙観講――。日蓮正宗67代法主の阿部日顕の“直属部隊”とされていた組織で、近年は、同グループの盗聴疑惑が裁判所に認定されるなど、阿部日顕の諜報機関的な役割を担ってきたと見られる活動家集団だ。
  手引きしたのは、その妙観講のナンバー2であった「佐藤せい子」という副講頭と、佐貫某という男性信徒の2人。佐藤は過去に、妙観講・講頭の大草一男と同棲した経験をもつ人物としても知られている。もっとも、現在大草の妻である佐藤の実妹も一緒の同棲ではあったというが‥‥。
  そうしたグループが、スクープ探しに躍起となっていた週刊新潮の担当デスクを“引率”して「謀略」を仕掛けたのが、この信平狂言事件だった。

 当時、阿部日顕は、米国シアトルで過去に起こしたスキャンダル事件(現地の売春婦との支払いをめぐるトラブル)を「創価新報」などで報じられ、名誉毀損訴訟を起こしていた。その裁判はその後、記事内容の「真実性」がすべて認められる結果になった。だが彼らは、そうした≪真正のスキャンダル≫の“意趣返し”として、≪架空のスキャンダル≫をでっち上げ、相手を攻撃してきたわけである。

 その“猿回しの猿”として踊らされる格好になったのが、「週刊新潮」の門脇護副部長であったのだ。
  もともと、函館の信平夫婦といえば、金のためならなんでもやる人物として地元では知られていた。実際、96年6月に狂言訴訟を起こしたあと、夫の信平醇浩は周囲に、「もうすぐ億単位の金が入る」などともらしていた事実もある。信平夫婦は、創価学会員、法華講員(=日蓮正宗信徒)を問わず、地位と暴力を使って多くの庶民から金を騙し取り、貸金裁判で敗訴認定された金額だけで「総額9000万円」を超えるといった札付きの極悪夫婦である。
  ともあれ、門脇デスクは取材を敢行するも、当初、想定していたような「被害」なるものを聞き出すことはできなかった。そこで彼が言った言葉は、「最初のパンチがものすごいものでないとダメなんです」。さらに「何とかして訴訟を成立させたいと思って聞いているわけです」。加えて、「うん、民事の訴訟できますよ、民事しかない!」。

 この段階ですでに訴訟を前提に取材していることが明白だ(夫婦の訴訟提起は、それから4カ月後)。
  後に誌面に掲載された被害内容というものが仮に真実であったなら、明らかに刑事事件に該当したにもかかわらず、刑事告訴をあえて避け、民事訴訟による損害賠償請求だけでいこうと知恵を授けていた。強制的な捜査を伴う刑事事件としては耐えられないほどの、客観的根拠の薄弱な内容と担当デスクが自ら認識していたからにほかならない。
  このときの生々しい取材テープは、後に外部流出することになったが、発信元は「静岡県富士宮市」。つまり、日蓮正宗の総本山所在地であり、妙観講筋から洩れたとみるのが自然であろう。
  この問題で結局、政党機関紙で同事件を取り扱った時の総理大臣は、3度にわたって謝罪を繰り返した。一方で、同じ問題で踊らされた格好の「張本人」である門脇デスクは、謝罪の姿勢を示したことは、これまでただの一度すらない。いまも、非を認めない態度に終止しているとさえいわれる。
  「でっち上げ」のキャンペーン報道に火をつけ、さらにそれが決定的な「誤報」であったことが明らかになったあとも、門脇副部長は何らの責任も取ろうとしないまま、これまで平然と仕事を続けてきたのだった。

■編集長になれなかった「エース記者」

 「週刊新潮」編集部で25年間勤務し、2008年3月末で退社した門脇副部長は、編集部にあってはいずれは編集長に就任すべき人物として社内で見られた時期もある。メディアによっては、同氏のことを週刊新潮の「エース記者」と評してきた。かつてある名誉毀損裁判で、新潮社の編集幹部がこう証言していた。

 「雑誌は編集長のものであるというのが我々の認識です」

 実際、同誌においても、編集長には多大な権限が与えられている。その週のネタを決定するのも編集長なら、記事のタイトルを考えるのも編集長。つまり、編集長の才能・才覚によって、雑誌の売上げは大きく左右され、逆にいえば雑誌記者・編集者にとってこれほどやりがいのある最終ポストはない。だが、門脇副部長は、そうした「編集長」職につくこともなく、「転身」の道を選んだ。

 すべては、96年から手がけた「捏造キャンペーン」の結果と見るほかない。

 今後は、講談社と密接な関係をもち、「門田隆将」というペンネームを使って、フリーランスとして仕事を続けていくといわれている。25年間勤務したことで厚生年金の資格を確保するとともに、まとまった金額の退職金も入ってくるようだ。
  「週刊新潮」の“象徴”と見られていた人物がこうして退社したことで、同誌の今後はいっそう「不透明」なものになってきた。(2008年3月末)



 
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