【新潮ジャーナリズムの恥部】
「早川清」編集長もビックリ!?
元『週刊新潮』記者が暴露した編集部内のおそるべき「捏造体質」
「週刊新潮」のいい加減な内容の記事には呆れることが多いが、以下は「週刊新潮」編集部に勤務したことのある同誌の「元記者」が、とある「公開法廷」の場において提出した「陳述書」の全文である。編集部内の実態を示す興味深い内容を多く含んでいるので、ここに謹んで「引用」させていただく。
「陳述書」の前半部分では、編集部における「捏造体質」が具体的に指摘される。それによると、週刊新潮誌上の「匿名コメント」はそのほとんどが同誌編集部による「創作」によって作成されるものといい、これらの事実は、新潮ジャーナリズムなるものが、実は「報道」などと呼べる代物ではなく、単なる娯楽的な「読み物」にすぎないと結論づけている。
後半部分では、新潮きっての「捏造記者」の働きが具体的に詳述されているほか、創価学会取材における同誌編集部の基本スタンスも浮き彫りになる。さらには「アテ(当て)取材」なる、訴訟対策を主目的とした形だけの直接取材の実態が明かされる。(2006年5月15日)
東京高等裁判所民事部御中
2005年2月1日付「陳述書」
1 はじめに
私は、2003年×月×日から週刊新潮の契約記者として勤務していましたが、200×年×月××日に辞めました。
辞めた理由は、たとえ食べるに困っても、人様を言論において傷付けたり、揶揄したりする仕事には携わりたくないと考えたからです。特に、自らの信念と反した揶揄ありきの取材には強い嫌悪感を覚えました。週刊新潮には「捏造体質」があり、自分自身が人生において関わるべき職場ではないと思われました。このような嫌悪感を覚えている人は新潮社の社内に、私以外のほかにもおります。
2 編集方法
週刊新潮の場合、金曜日の正午に一週間の業務が始まります。この段階で、編集部員は全員が新潮社別館2階の週刊新潮編集部に集合します。ここで、早川清週刊新潮編集長がマイクによってその週の取材内容と担当記者を発表します。おおよそ5分以内のこのマイクを通じた放送が終了すると同時に、担当デスク(アンカーマン)と取材記者(データマン)は個別に打ち合わせに入り、取材方針を打ち合わせます。
この場合、通常2ページ以上の特集記事候補ではデスク一人に対して記者が2人以上配属されます。それ以外の小さな記事、週刊新潮においてはこれらをワイドネタと呼びますが、このワイドネタにおいては通常はデスク一人に対して記者一人がワンセットとなります。この段階から地方に出張に行くものはデスクから基本出張手当、一人あたり16万円を現金で支給されます。沖縄や北海道、九州地方など地方出張でも特に遠方に関しては18万円が支給されます。金曜日の午後に取材が一斉に開始され、土曜日の夕方5時からのデスク会議までに各取材記者は取材内容にめどをつけ、担当デスクに報告します。
土曜日午後5時のデスク会議は編集部奥にあるテレビの前のソファーにデスクが集合し、早川清編集長を前にして取材経過の報告を行います。この報告を聞き、その時点での早川編集長による取材継続か断念か、また取材内容の追加指示などが出され、会議終了後にデスクは各配属記者に連絡されます。こうしたデスク会議は翌日曜日の午後1時をめどに再度開かれ、取材内容の報告と編集方針などが確認されます。日曜日の夕方になると報告を踏まえ、早川編集長から取材内容に対する仮見出しが張り出され、その見出しに内容に特に異存のある者は早川編集長に直言することができます。
取材は基本的には内折りと外折りという2回の締め切りで行います。内折りの締め切りは日曜日で、月曜日の早朝までに印刷所に入稿し、外折りの締め切りは月曜日で、火曜日の早朝までに印刷所に入稿します。当該取材内容が内折りか外折りかは取材で時間がかかりそうかなどがおおまかな目安ですが、特集候補などより広範囲で多角的な取材を必要とするものはおおむね外折りの締め切り設定として、取材に時間をかけます。
3 取材体質
週刊新潮では、私を含め若い記者はデータマンと呼ばれ、担当デスク(アンカーマン)の指示で取材をし、その結果をデータ原稿として担当デスクに提出します。そしてデスクは、何人かのデータマンが提出した原稿をもとに記事に仕上げます。
取材開始後に編集長が編集部内に記事の仮見出しを掲示しますが、すべてはこの仮見出しに沿った記事を仕上げるために集中されます。
デスクは、あらかじめ描いた記事の構図(ストーリー)に合致したデータ原稿を求めます。構図に反するデータ原稿は排斥され、構図に合致したものだけが取り上げられることが多く、データ原稿に記載された取材対象者の発言を改ざんしてまで、都合よく記事が作成されることもありました。私が取材した相手の発言とは明らかに相反する発言が相手方の発言として記事に記載され、取材相手に申し訳ない気持ちで一杯になったこともありました。
今回の記事については、私の担当ではなかったこと等から、取材の具体的経緯については知らないのですが、この記事に関するタイトルが発表され、その中で「4000万円云々」というおどろおどろしいタイトルが踊っているのを見て、一抹の不安を覚えました。そして刷り上ってきた記事を見ますと、見出しで「4000万円」と確定的な数字を出す根拠が明確に、十分な説得力をもって示されているとは思えず、さらに「これは大丈夫なのだろうか」と不安を募らせました。平沢勝栄衆院議員とパチンコ業界とのさまざまな噂については私自身が第三者の話として見聞したことはありましたが、そのいずれもせいぜい噂の域を出ず、とても記事化できるものではなさそうなものでした。
政治家はとかく、さまざまな噂の渦中にとり置かれるものであり、そのひとつひとつをきちんと検証していけば、そこにはさまざまな権謀術数や妬みや嫉妬が絡んできます。そうしたさまざまな人々のさまざまな思惑をはらんだ情報はとかく尾ひれがつきやすく、それゆえに、政治家のスキャンダルを記事化する場合にはとにかく、第三者にきちんと説得力をもって提示できる物証の入手とその検証が第一義に必要であると私は認識しておりました。それゆえに、果たしてこの記事にはそうした裏付けがあるのだろうかと、自らが所属する組織の記事でありながらも心配しておりました。
そんななか、ジャーナリストの○○○氏、早川清編集長、△△△氏が刑事告訴されたと聞き及んだころ、四方田隆副部長に近い編集部員から、四方田副部長も、「○○がブツがあるというので信頼していたが、いざとなったらブツがなくて、非常に困っている」旨を伝えられたことがありました。
4 記事作成の傾向
週刊新潮だけでなく、多くの週刊誌では短期間により多くの情報を盛り込むという物理的制約からアンカーマン制度を構築しております。特に週刊新潮はこのアンカーマン制度を構築したパイオニア週刊誌としても知られ、多くのデータマンがそろえた原稿を、アンカーマンであるデスクが一本の記事に仕上げるものです。
しかしながら、この方式では、現場で実際に取材対象者に会わないデスクが記事を作成するために、現場のニュアンスや取材対象者の心理状況などが実感、皮膚感覚としてデスクに伝わりにくい面が否めません。
なかには自らのソースできちんと取材をかけ、データマンと一体となってきめ細かな取材を展開するデスクもおりますが、基本的にはほとんどのデスクは取材指示が甘く、その記事構成においても信頼できないことが多いため、すでに嫌気が差しておりました。
週刊誌の記者としての適性では新聞記者の適性とはまた異なる、文章としての面白さや記事の展開の面白さなどが重宝される面があるように思いますが、この「新潮ジャーナリズム」を標榜される人々は、そうした文芸的主観と関心が先にたち、取材が始まる前からこう書けば面白いといった結論先にありきのプロップが先行し、その予想プロップに沿った話をとにかく相手にしゃべらせてこいといった明に暗に、その傾向が強いので辟易しておりました。
こうした勧善懲悪の構図をどう組み立てるかという結論先にありきのような取材では、いかに現場のデータマンであるわれわれがその構図とは逆のベクトルに働きそうな話や談話をとってきたとしても、当然に記事からは排斥され、そのデータ原稿のなかから、デスクが書こうと思う、ストーリーに適合するものだけが引き抜かれ、一本の記事のなかに、調和を図ったモザイクのように組み込まれていくことになります。
結果として、週刊新潮の記事は、通称「コメントつなぎ」と呼ばれるもので、人のコメントをつなげた体裁のものとなっていますが、実際に、そのような「コメント」を掲載のニュアンスどおりに正確に取得していることのほうが少ないといっても良いと思います。特に、「匿名のコメント」はその傾向が顕著であり、「○○関係者」などといった紹介されている人物の「コメント」などは、8割〜9割方は新潮で作成しているものです。例えば、こちらから質問をしたことに対して、「そういう噂もありますよね」といった相槌を得れば、「そういう話を確かに聞いています」というコメントにしてしまう訳です。
私はこれもまた、ひとつの捏造記事であると捉えております。0を1にするのは論外ですが、1を10に展開することもまた、捏造であると私は認識しております。
時にデスクはデータ原稿のニュアンスをも入朱していきます。弱いニュアンスの語尾を断定調に改ざんするなどし、そうしたものを一本の記事のインパクトを強めるという目的のなかで多くのデータについてしばしばそうしたことを行います。これはときに、語調を統一するといった文章上の技術の問題ではなく、発言者のトーンの捏造でもあると私には思われます。ひとつひとつのデータ原稿に加えられた小さなニュアンスやトーンの改ざんは、一本の原稿となったときにさらに大きなゆがみとなり、それはときに事実の正確さの追求とはまったく異なったものになるように思われます。
文芸上、それが週刊誌に必要なのだということであれば、それは読み物であり、週刊誌は自らが昨今、標榜してやまない報道という看板を下ろすべきでしょう。
実際に現場で取材をしていれば、それほど都合よくデスクの構想に沿った話や談話ばかりが出てくるわけではありません。しかし「読ませんかな」「売らんかな」のために時に、発言者のニュアンスやトーンの正確さを結果的に犠牲にしてしまうことは、現在の週刊誌の持つ大きな問題点と課題であると思われます。
新聞もまた同様であるように、週刊誌もまた当然に商業媒体としてひとつのビジネスであり、出版社や新聞社における事業です。しかし、週刊誌が報道媒体であることを声高に主張し、その地位向上と報道媒体としての認知を一層推し進めたいと考えるのであれば、まずは自らがはらむそうした内在的な問題性をきちんと組織的に改善する必要があると考えます。しかし、週刊新潮社内では、裁判に訴えられたり、敗訴したりしたとしても社会的地位の評価を下げません。発行部数さえ維持できれば、民事裁判で敗訴しても十分に元が取れるという考え方です。
5 署名記事について
署名記事についてもそれは言えるでしょう。2003年末に週刊新潮が掲載した「新・創価学会を斬る」シリーズは週刊文春出身の山田直樹さんというライターさんの署名記事でした。私は途中から取材班に加わり、主に池田大作さんの若きエピソードを掘り起こしてくるようにとのことで、東京都大田区蒲田の池田大作さんの生まれ育ったといわれる地域を丹念に取材して歩きました。
その折も、ある創価学会関係者のお宅にお邪魔して取材趣旨を告げ、「池田大作さんの若き日のお話について、週刊新潮ではありますが、決して悪い話だけではなく、いいエピソードもあればぜひお伺いしたい」といったことがありました。しかし、編集部に戻り、デスクを務めていた門脇副部長に報告した折、私は門脇氏から「そんな嘘をついて取材をするな」と厳しく叱責されました。
私は一体、取材趣旨を告げることのどこに嘘があるのだろうと考えておりましたが、おそらくに同氏の頭の中には「いいエピソードも」という一節が引っかかったのであろうと想像できました。すでに書くべきトーンが決まっている状況のなかで、おそらくに「いいエピソード」が仮にあったとしてもそれを盛り込む余白などないということだったのでしょう。その瞬間、私は、「ああ、自分はこうした仕事から早く離れなくてはいけない」との思いを強くしました。
そして、署名記事は山田直樹さんでありながら、山田さんが書かれた原稿を原型を留めないほどにほとんどすべて、担当デスクの門脇氏が書き直し、山田さんの原稿として掲載しておりました。週刊新潮には多くの署名原稿が掲載されますが、その多くは最終的に担当デスクの思惑に合致しない内容や文体の場合は最終的に取材を行っていないデスクが書くことが多く、その署名記事たる意味は形骸化しておりました。
記事であれ、論文であれそこに仮説が存在するのは当然です。そしてそれを実際に取材し、または調べていくなかで、その仮説に変更を迫る事実が発掘されることもあるでしょう。そこには当然に変更とそしてバランスが求められるのですが、そうした注意を欠いた記事は私のなかで「偏向」以外ではありえません。
6 アテ取材について
記事の締切直前に、記事で揶揄される人物に対して取材がなされるのは、編集部内では「アテ取材」と呼んでいます。
「アテ取材」は本来、取材当事者に事実関係を丁寧に確認するという取材の基礎をなすものですが、週刊新潮の編集部で支配的な実態は訴訟対策用の意味合いが強く、名刺をポストに入れる等して反対当事者からの話を聞くべく努力した痕跡を残すという傾向のものです。
週刊新潮のデスク陣に支配している「アテ取材」の実施実態は、真摯に事実確認をしたいというものではありません。取材したい内容が分かる程度には記載しますが、ほとんどの場合、結果としてできる限り抽象的に記載することに留まります。そして、ややもすれば、口頭で具体的な根拠などを五月雨式に示して質問をして即答を求めることが多いのです。
当然、そのような質問の仕方では、質問を受けた側では、記憶喚起や資料確認の機会すらないわけですから、まともな返答が出来るはずがありません。また、自分を揶揄する内容の記事について急に取材に応じるように言われて気分を害する人もいます。さらに、申込み時には「本誌の締め切りの都合上、すぐに取材したい」などと加えますので、取材を受けた側では、このままでは自分が週刊新潮上で揶揄されるというプレッシャーをうけるだけでなく、時間をかけて事実確認をする暇などないと受け取ってしまいますから、まったく事実無根の内容であっても、相当に焦った心境で対応することとなります。
しかし、週刊新潮編集部では、「取材をぶつけたがまともな返答がなかった」という事実さえ残せればよいという傾向が支配しています。
また、「アテ取材」の副産物としては、上記の如き状態や心境で回答するため「あーでもないし、こーでもない」式な返答となったり、(実は週刊新潮として根拠のある些細な点に関して)実際に事実を勘違いして返答される方、また、実際に立腹しながら話をする方等もいて、そういったコメントを取得できた場合には、本人のコメント自体をさらに揶揄する対象として面白おかしく紹介することもあります。
7 最後に
今回の○○○○衆院議員をめぐるひとつの記事についても、その事実関係は週刊新潮側においても真摯に精査されるべきです。まずは精査をし、非があれば非を詫び、訂正すべき点があれば訂正する。こうしたひとつひとつの「小さな恥と詫び」の積み重ねが、長い目で見れば、週刊誌に、報道媒体としてのさらに一層の価値を与えるものであると私は信じます。(了)
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