【新潮ジャーナリズムの恥部】
『週刊新潮』の"居直り"副部長
「門脇護」が学会叩きに“狂奔”した「理由」
新潮ジャーナリズムを“捏造ジャーナリズム”に貶めた「張本人」=門脇護(週刊新潮・副部長)は、いかにして「捏造」に走ったのか。本レポートは、その概要を明らかにすることを試みたものである。
■高知県出身のマスコミ志望生
1958(昭和33)年生まれの門脇は、役所の地方職員として勤務する父親をもち、その次男として育った。出身は高知県である。中学・高校は高知県でいちばんの進学校(私立)を卒業。それまでの間、一年だぶっているが、このことは彼の精神形成に影響を与えたと思われる。その後、大学受験に失敗。一浪して入学したのは、中央大学法学部政治学科だった。
彼の出身高校からは、東大に10人前後、私立も早稲田、慶応に30人以上合格させる学校だったので、一浪して中央に入ったことは、“学業としての成績”がずぬけて優秀だったわけでもない。中大に入ったのちは、早い段階でマスコミ志望を固めたようだ。
朝日の看板記者だった本多勝一氏の書籍(ハードカバー)を持ち歩き、政治問題でも活発に議論するタイプの学生だったという。受験に失敗した門脇にとって、就職は、自身の未来を開くための最後のステップアップの機会だったのだろう。早い段階から入念に準備をしていたことがうかがえる。
本来、マスコミ志望なら、早稲田などを受けるものだが、その“第一関門”に彼は失敗した。そうしたコンプレックスは、その後、努力に転化することで解消されたようだ。門脇の負けず嫌いの性格はこのころまでに形成されたようである。
大学では読売新聞の論説委員を務めた講師が主宰するゼミナールの正式メンバーとなり、マスコミ対策試験用の作文など、具体的な指導を受けた。門脇は79年入学、83年卒業だが、当時の就職戦線、なかでもマスコミの解禁日は遅く、10月開始だった。その後の創価学会問題との彼の接点を考える上で、この時期は重要な意味をもつ。
一般にマスコミ志望者は、日々の新聞をはじめ、志望会社の媒体などに丹念に目を通す。門脇がまだ20代はじめの“純粋な精神”でマスコミ対策の勉強に励んだこの時期、何があったのか。それは、「月刊ペン事件」の差し戻し審における渡部通子証人の出廷であり、池田名誉会長の出廷であった。週刊誌などは、当時発刊まもない『フォーカス』をはじめ、この“疑似イベント”をセンセーショナルに取り上げた。門脇はまさしく、当時の空気を腹いっぱい吸い込み、一連の興味本位の虚偽報道を「真実」であると錯覚し、その後記者生活に入った世代である。
朝日新聞社をはじめとする新聞社を受験したという話もあるが、卒業後の83年4月、新潮社に入社した。すぐに配属されたのが『週刊新潮』編集部である。その後、三浦和義事件、日航機墜落事故など多くの事件が起きたが、学会問題において彼が最初にかかわったと思われる大きな事件は、“寺田狂言事件”である。
■もう一つの狂言事件
彼が入社した翌年の84年に「週刊新潮」に掲載された手記だが、それから12年後の“信平狂言手記”と通底する、裏づけをまったくとっていない、一方的証言だけをもとにした代物だった。
寺田富子(故人)は、門脇と同じ高知県出身の女性で、金銭問題で昭和38年に学会を除名処分された人物。その後、東京に出てきて池袋でスナックを経営したりしたが、山崎正友などにそそのかされ、月刊ペン事件の差し戻し審の証人として出廷。だが、判決文にも明確に記されたとおり、この女性の証言はしどろもどろ。裁判所にもまったく信用されなかったが、被告・隈部大蔵らは、二審でもこの女性を出廷させようと画策。そこで思い切りセンセーショナルな「デマ」を開陳しようとした。だが、裁判所は証人申請を一蹴。その結果、やけくそになったのか、「週刊新潮」でその内容を手記として掲載したのが“寺田狂言手記”である。このとき山崎が裏で密接にかかわったことは想像に難くない。
当時、同じ高知県出身者で特集担当記者だった門脇は、ほぼ間違いなく、この手記作成にかかわったと推認できる。
だが、当時の「週刊新潮」がそれほど頻繁に学会叩きを行っていたわけでもない。むしろ、その役割は「週刊文春」にあった。
門脇は90年4月、取材を指揮し、最終的に記事を執筆するアンカーマンの立場である「デスク」に就任。その後、彼にとって大きな「事件」となったのは、94年8月に惹起した白山信之氏への人権侵害事件だった。交通事故の「被害者」を「加害者」にでっち上げ、殺人犯として描いた、いわくつきの記事である。この事件で裁判を起こされ、後に「完敗」するが、創価学会系機関紙、特に『創価新報』からの批判にはかなりナーバスになったようだ。
彼が記事作成において実権をもつ「デスク」に就任した時期が、第二次宗門問題の渦中だったことも、教団への偏見を深めた要因の一つであろう。
このころ、正信会(=日蓮正宗と対立する分派)出身の学会退転者・乙骨正生が「継命新聞社」を辞め、独立。先輩格の“元学会員”段勲について活動を始めるが、このころから門脇は学会ウォッチャーとしての彼らとも結びつきを深めたようだ。その上で、日蓮正宗へのシンパシーが深まったと思われる。その心情が“爆発”したのが、白山氏の記事だった。死亡した「加害者」が日蓮正宗寺院の住職であり、「被害者」が創価学会員であったことに目をつけ、事実を大幅にねじまげた。
門脇は95年9月の東村山市議転落死事件でも記事執筆にあたっているが、このとき、門脇の自宅に“第一報”の電話を入れたのは、これまた“元学会員”で、正信会出身の乙骨正生である。
その後の95年の宗教法人法改正のころの“空気”の延長もあってか、96年2月、無実の人間を「レイプ犯」に仕立て上げるおそるべき“狂言手記”はセットされた。当時、信平醇浩の借金問題など指摘されていたにもかかわらず、門脇はそれらを不問に付し、信平信子に“誘導取材”を行い、でっち上げの「被害」を引き出した。この経緯は、当時の記録にも明白である。
■日蓮正宗と“結託”した信平取材
実は、信平夫婦へのアポイントをとったのは、創価学会と対立する日蓮正宗の信徒だったという驚くべき事実も後に判明する。“ペテン師”山崎正友の“カバン持ち”=「佐貫修一」などだが、これに随行したのが新潮記者の門脇だった。日蓮正宗の信徒である佐貫らにとって、阿部日顕のクロウ事件(=シアトルでの買春事件)が重くのしかかっていたようでもある。その意趣返しという側面がなかったわけでもないようだ。
問題の“狂言手記”は、新潮社の創立100周年記念、「週刊新潮」の創刊40周年記念号という、社内においては幾重にも意義のある号にあわせて“スタンバイ”された。このころが門脇護の“絶頂期”だったかもしれない。
だが、狂言夫婦を原告に、中大のゼミの先輩でもある弁護士・秋田一恵に依頼して起こした民事裁判も、結局、“訴権の濫用”と完膚なきまでに叩きのめされ、門脇は行き場を失う。まして、2001年11月には『言論のテロリズム』という衝撃的な書物も発刊され、門脇らが函館で夫婦らにどのような根回しや取材名目の「談合」を行っていたかが白日の下にさらされた。
新聞社であれば、まちがいなく「懲戒解雇」処分となったはずの内容である。
だが、新潮社という「一流」文芸出版社では事情がちがった。「捏造」であっても不問とし、この記者を“飼い”つづけた。そればかりか、“問題記者”のポストを「次長」から「副部長」に昇格させた。
結局、門脇は、取材者に不可欠な「洞察力」に乏しかったゆえに、夫婦の虚言を見抜けず、“墓穴”を掘った。いや、実のところは見抜いていたが、自分の「功績」にするために目をつぶったとの推測も成り立たないことはない。だが、小生は前者に近い見方に立つ。いま現在の心境は知らないが、当時の彼は、事件なるものをおそらく「信じ込んでいた」はずである。
背景にあったのは、就職活動の時期から彼の心に「定着」していた池田名誉会長に対する根深い「予断」と「偏見」であろう。さらには「週刊新潮」における長年の仕事をとおし、それは“凝結”してもいた。その意味では、門脇自身も、雑誌ジャーナリズム界の“哀れな犠牲者”といえるのかもしれない。
だが、いま振り返ると、信平醇浩の借金問題一つとったところで、現地で取材すればすぐに「事実」が判明した話である。被害者の一人にでも会ってみれば、真実かどうか容易に判断できたろう。つまるところ、信平夫婦、特に夫の醇浩が何を目的としていたか、どんな種類の人物であるか、見破ることはさほど難しくなかったはずである。なぜなら、信子の証言は始終しどろもどろであり、門脇らの「取材」においても、肝心の被害内容、回数、被害時期は幾度となく変遷していた。だが、そうした不可欠なはずの“反面取材”を、門脇は故意に避けた。これが週刊新潮の“エース記者”の「実態」だった。
例えば、乙骨正生のような「事実」に依拠しない“名前だけのジャーナリスト”がそれを行ったのならまだ合点もいく。だが、「週刊新潮は日本で唯一、真実を書くジャーナリズム」と法廷で豪語したこともある彼の自負の「根拠」は、この問題のどこを探しても見つからない。
■筆を折れない「卑劣漢」
実はこの時点で、彼は筆を折るべきだった。少なくとも、2001年11月の時点で。だが、それもできなかった。
30代半ばにして都心に土地つきの一戸建て住宅を購入し、1000万円をゆうに超える年収を得ていた門脇にとって、ペンをもつ者の“矜持”よりも、「保身」のほうが先に立った。子どもの教育費もある。まして、フリーで食っていけるか心もとない。この男にフリーランスで悪戦苦闘している者たちの苦労などわかろうはずもないが、この時点で、彼は“志を失った社畜”に成り下がった。要するに、「新潮社」という≪看板≫がなければ、所詮何もできない男である。
ペンを折るかわりに彼がとった行動といえば、裁判所の矛盾を突つき出す作業であった。要するに、自分の裁判などで負け続け、そのことで批判を受けたゆえに自己弁護の行動に走ったわけである。その書『裁判官が日本を滅ぼす』が業界内でそれなりの評価を受けたことは耳にしているが、その取材は彼一人で行ったものでもない。同僚や後輩がチームとして取材したものを、彼がアンカーでまとめただけの話である。個人ですべてを取材するフリーランスから見れば、極めて“オイシイ”仕事にしかすぎない。
そんな門脇にとっての現在の教団批判とは、深層心理をつきつめれば、世の発展に寄与するジャーナリズムの精神から発したものというより、日蓮正宗信徒や反学会ジャーナリストらなどと密接に連携をとりながらの、自らの「罪悪」を糊塗するための行動というほかない。
彼のような確信犯的な“ハレンチ記者”にとって、今後とるべき選択肢は多くない。報道被害を受けた人々へ真摯に「謝罪」するか、ペンを「折る」か。私はその両方であるべきと考える。だが、門脇は、「捏造」を指摘されても、いまにいたるまで、口を閉ざしたままである。
それどころか、2004年11月には、母校の中央大学などで講演を行っている。大学の学部生を対象にした講演会だが、テーマは「危機に陥ったマスコミ・ジャーナリズムの世界を救いに来い!!」。冗談だろう、と思うのは小生だけではあるまい。
タイトルは、正しくはこう付けるべきだろう。
――『週刊新潮』の「門脇護」のように、捏造を行っても責任を取らずにすむ“狂った”日本のジャーナリズムを救いに来い!!
「門脇」の取材執筆した捏造記事が、日本のメディアの名誉毀損における損害賠償高騰化をもたらした遠因となったことは間違いない。この男こそが、日本のジャーナリズムを「危機」においやった“本丸”の一人である。その“本丸”は、60〜70人いるとされる『週刊新潮』編集部の「副部長」に“居直った”まま、いまも平然と仕事をつづけている。
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