第六章
証言「帰国事業は共産主義の“幻想”がもたらした悲劇だった」
小島晴則(こじま・はるのり)氏
横田めぐみさん等被拉致日本人救出新潟の会会長【出版当時】。
元新潟県帰国協力会事務局長。
1931(昭和6)年新潟市亀田町生まれ。
小島晴則氏は1959(昭和34)年から始まった北朝鮮帰国事業の“現場”の最前線で在日朝鮮人や日本人妻を北朝鮮に送り返す仕事をしてきた人である。その意味では、自分の目と耳で帰国事業にふれ、経過を見守ってきた貴重な証言者の一人だ。当時、小島氏は日本共産党員として“革命精神”に燃えて仕事に取り組んでいたというが、実際にかの地を訪れ、朝鮮労働党員などと接するなかで、帰国事業そのものに大きな《疑問》を抱くようになったという。10年後の68年には、日本共産党を自ら離党。現在は日本人妻問題だけでなく、拉致被害者を救出する「新潟・救う会」の責任者として活動を続けている【出版当時】。帰国事業にかかわった中で、贖罪の意識をもち、現在もこのような活動を行っているのは小島氏のほか佐藤勝巳氏(現代コリア研究所・所長)など全国でもごく少数という。
■帰国事業にかかわったきっかけ
――小島さんは当時、どういう立場で仕事をされていたのですか。
「私は在日朝鮮人帰国協力会にいました。日本共産党が中心になって組織したものですが、当時、帰国協力会と日朝協会という二つの組織があって、朝鮮総連を加えて『帰国3団体』と称していました。共産党はかつての日ソ協会や日中友好協会などと同じように、社会主義国との友好団体をつくったんです。北朝鮮ともつくりましたが、それが日朝協会。共産党の外郭団体のようなものです。
私のいた帰国協力会というのは、北朝鮮に帰国事業が始まるというので、日朝協会よりも幅広い組織として、58年11月に中央につくられ、それから順次各県につくられました。実質的には共産党が全部主導権を握っていました」
――当時、新潟では帰国協力会と日朝協会は同じ所に事務所があったのですか。
「そうです。新潟では第一船が出る直前の昭和34年9月ころ、帰国協力会の設立総会が行われまして、その直後に私も新潟県の事務局に入りました。以来10年間、帰国事業にかかわりました。北朝鮮に帰った9万3000人のほとんどを私は新潟港から見送ったことになります。送った船は150回になります」
――それ以前はどのようなお仕事を。
「当時は20代で若かったですし、革命精神にも燃えていましたから(笑い)、共産党専門の本屋に勤めていました。月給みたいなものではなく、普通の人が月1万円もらうときに我々は2000円くらいで、食事代にもならないんです。一日一食とか二食でしのいでいました。その後労働組合の書記のような仕事をしていました。当時の労働組合はほとんど社会党が握っていて、私は共産党ということでずいぶんいじめられました。そのころ帰国事業が始まるというので、共産党員ならだいじょうぶということで、私が事務局に入ったんです」
――事務局の規模はどのくらいでしたか。
「専従職員は4人でした。当時、新潟県の日朝協会の会員は100人そこそこで、会費だけではとても専従は養えない。一方で帰国協力会は市や県からの補助金も出ていた。一般からの寄付金も入っていたので、かろうじて4人を養えたわけです。それでも給料は普通の相場の3分の1くらいの額だったと思います。われわれが日朝協会の仕事もしながら、帰国協力会の仕事もするという感じで、金はないけどひたすら忙しかったですね。革命的な精神が作用していたものだから、金より、北朝鮮の社会主義を礼賛してそこに送り込むことが日本の革命に寄与するという信念でやっていました。まるで自分が社会主義の国に帰るような気分になったものですよ。船を見送るたびに、ああ、大きく歴史は動いているんだなあと感慨深く思ったものでした」
――事務局は4人とも共産党員ですか。
「もちろんそうです」
――どこから指令を受けて動くんですか。
「新潟の責任者が、共産党中央から指示を受けて動いていました。ときどきグループ会というのを開くんですが、これは共産党が主導している党員の集まりです。そこで運動の位置づけだとか、どういう階層に共産党の主張を広めていくなどを検討していました。当時は共産党と朝鮮労働党が親密な関係にありましたから、社会党なんかまったく相手にされていなかった。主導権をもっていたのは日本共産党でした」
――小島さんはどういう仕事をされていたのですか。
「私は帰国者が入ると駅に出迎えてくれとか、船が入るときに港に出迎えてくれとか、一般の人や団体に要請する電話をかけるとか、毎週帰国者の代表と船の代表などを集めてパーティーを開くわけです。その案内をつくって配って歩くとか主にそういう仕事でした」
――佐藤勝巳さん(現代コリア研究所・所長)も同時期に働かれていますね。
「佐藤さんは翌年から日朝協会に入ってきました。1964年の秋に東京に行くまで一緒に働いたのは3年くらいですね」
――当時の時代背景もありましたね。
「日本の国内も共産党を含めて左翼運動の高揚期を迎えていたころです。その頂点が、1960年の日米安保改定の時期でした。かたやソ連、中国、北朝鮮の社会主義はたいへんすばらしいと思っていた。交流だって当時は微々たるものです。特に北朝鮮なんか、ほとんど交流はないですし、頼れる情報もない。情報がないから、理屈の上だけの社会主義に憧れるわけです。特に北朝鮮の社会主義の発展の速度は“千里馬の勢い”、つまり一日に千里を走る馬のスピードに例えられていました。それを紹介したのは寺尾五郎という人でしたが、我々は、北朝鮮の社会主義を宣伝することが日本の社会主義運動を理解してもらう上で重要という立場で運動を進めていました」
■“異変”に気づくまで
――北朝鮮に帰った帰国者たちからは、早い段階から窮乏を訴える手紙が送られてきていたそうですが。
「それは第一船が出た直後ではなくて、翌年の1960年にもそういう話はなかった。その翌年(1961年)の半ばくらいになって、そうした話を聞くようになりました。最初は、向こうにも(帰国者を)歓迎しようという気分があったようですね。あのころの経済は、韓国よりも北朝鮮のほうが水準が高かった。我々も仕事で船の中に入ると、日本人が食べているものより、肉や酒などがふんだんに出てくるので、当時は社会主義というのは違うなという印象を持っていました。なんといっても粒よりの美女が乗船してきますしね(笑い)。後で思えば向こうの完全な“演出”だったわけなんですが」
――帰国者は61年半ばから激減するわけですが、その時期と一致するわけですね。
「そういえるでしょう。だから、最初の一年間はそういう手紙は来なかったんです。社会主義国の土を踏んで建設にいそしんでおりますというような手紙ばかりでした。日本では考えられなかった大学に入ったとか、医学部に入ったとか、日本で死の宣告をうけた病人が北朝鮮に入って完治したとか、そういう美談めいた話がたくさんありました」
――2年目から悲惨な手紙が届き始めるわけですね。
「そうです。石鹸を送れとか、想像もつかないような手紙が来ているということを耳にするようになりました。我々はそれを聞いて、朝鮮総連に確かめに行った。すると、いやそれはデマだという。“反共”のデマだというわけです。仮にそうだとしても、帰国者が減りだしたのはどういうことだと聞くと、総連側が言うには、日本にいる貧しい人はほぼ帰った。これから帰る人たちは、ゆっくりと財産を処分しなければならないので時間がかかる。あるいはまだ子どもが小さいから、もう少し教育を受けさせて帰るとか説明していました。ですから帰国事業は、永久に続けなければならないとも言っていました。当時は私もデマだと思っていました。我々はそういう手紙を直接見る機会もなかったですし。家族のところには来ておったけれども、我々のところにはそうした手紙は来ないわけですから」
――“異変”を感じ始めたのはいつごろからですか。
「1960年代のはじめごろです。私が決定的にこれはだめだなあと思ったのは、船に乗ってくる朝鮮労働党の幹部の態度でした。彼らの態度はきわめて官僚的なんです。朝鮮総連にも同じことを感じました。特に東京から来る総連の幹部は肩を怒らせているような感じで、着ている服装も高級服でぱりっとしていました。飲み食いも派手でした。一方で、朝鮮総連の若い青年たちと接するとこれがまったく違う。要するに“平等”であるはずの社会主義国の朝鮮労働党員に、ものすごい階級格差があるわけです。これは日本共産党にも感じていた体質だったんですが、建前(スローガン)と現実がまったく違う。でたらめだと思うようになったんです」
――その後訪朝する機会が訪れますね。
「日朝協会の友好使節団の一員として、1964年7月から3週間にわたって北朝鮮を訪問しました。全国から日朝協会の青年活動家5人が選ばれました」
――現地でどう感じましたか。
「やはり、一般の人と党幹部の格差ですね。3週間で嫌になっちゃった。完全な階級社会でした。監視員は常に付きます。われわれは中国経由で平壌に入ったのですが、北朝鮮からみると、中国の統制はまだゆるやかでしたから、北京に戻るとほっとしたくらいです。北朝鮮ではご飯食べるときにも、偉大なる首領様のお陰であるというような枕詞をみな唱えて食べている。こんな光景を見ていると、これは宗教社会と同じだと。中国でも偉大なる毛沢東とはいっても、食事するときまで唱えてはいなかったですから。北朝鮮は異常な社会だと思いました」
■共産主義運動の危険性
――帰国されて、その後どういう心境の変化がありましたか。
「しかし、帰ってきてからもそれは言えなかった。北朝鮮の社会主義はウソだ、なんて言えば、共産党の反社会主義的な行動になる。そういう空気が強かったですからね。帰国後、県内約80ヵ所で報告会をやりました。日朝協会の支部や朝鮮総連が組織する会合、労働組合関係。あの当時、北朝鮮に行った人はほんとうに珍しかった時代です。新潟県では私は初めてくらいのときですよ」
――報告会の様子は。
「朝鮮総連が主催する報告会に行くと、最初は総連の人が司会やって、偉大なる金日成の祖国、北朝鮮を見てきた報告です、と得意げに紹介して、私が30分くらい報告する。“千里馬の勢い”ですばらしく発展している、だから何の不安もないから帰国しなさいという話を私がするわけです。それから私が撮ってきた8ミリ映写を上映して、質疑応答。合計1時間半くらいやるわけです。それが終わってから、懇親会になって一杯飲む。懇親会になると、さっきすばらしいと言っていた朝鮮総連の司会者が、酒をつぎにきて、『小島さん、ほんとうのところはどうなんですか』と私に聞いてくる。そのとき本当のことを話そうかなと迷うんですが、必ずどっかでぼろが出る、そうするとお前はとんでもないという話になりますから、すばらしいと言っておけば問題ないだろうということで、心もとない報告会をやっていたわけです」
――良心の痛みはなかったのですか。
「なかったといえばウソになります」
――当時、窮乏を訴える手紙が来て3年くらいのときですね。帰国希望者も激減していた時代ですが。
「朝鮮総連の中央幹部は別として、地方の幹部やなんかはおやっという疑問を持っておったと思いますね。とういうのは、在日朝鮮人は商売人が多かったですからね。商売をやっていると、社会の動向というのは常に気になるんですよ。特に朝鮮人は日本人よりも苦労していましたから、そういう敏感さをもっていた。そして帰国した身内をよく知っている」
――日本共産党の指導陣にもそうした話は入っていたはずですが。
「上層部には入っていたでしょうが、“反共攻勢”だということで打ち消しておったと思う。取るに足らない、問題外の話だと。そんな宣伝に惑わされるなという立場でしょうから、まともに受け止めようという姿勢じゃなかったわけですよ」
――日本共産党の訪朝団が何度も現地を訪れていますよね。
「所詮、イデオロギーというものは、現実を見ないものなんですよ。色眼鏡で見ているから、自分たちのイデオロギーにかなったものしか選別しない。そのいい例がたとえば選挙で負けるでしょう。すると“反共攻勢”が強いということを理由にして、自分たちが間違ったということを絶対に認めないんです。自分たちは絶対だ、という意識が強すぎるわけです。いまの金正日政権もまさにそうです」
■自ら離党する
――小島さんが離党されたのは1968(昭和43)年ですね。経緯はどういうものだったのですか。
「もうそのころ、正直私は飽き飽きしておった。こんなところにおったって社会主義なんて実現できるわけがないと。社会主義の“平等理念”などには捨てられない魅力もありましたが、共産党自体には辟易としていた。帰国協力会につかまっていても、私も結婚して生活しなきゃいけないし、辞めますと。ちょうど帰国事業が3年くらい中断していた時期です。当時私は、帰国協力会だけでなく、日朝協会の事務局長もやっていました。すべて辞めると同時に、党員も辞めた。それからいまの商売(呉服屋)を始めたんです。これが社会主義体制なら裏切り行為ですから、収容所に入れられるところなんだけど、日本はまだ自由主義国家だから、だいじょうぶでした(笑い)」
――査問を受けたそうですね。
「ええ、そのころちょうど寺尾五郎が共産党を除名されたときでね、寺尾の本を私の知っている党員が配ったんですよ。それを私がかばって、おれが配ったんだと言ったわけです。するとお前、反党行為でけしからんじゃないかと。絶対に私が悪だという態度で二人に長時間査問されました。検事が被告を取り調べるのと同じですね。辞める少し前のことでしたから、離党するときもすんなりいったわけでしょう」
――寺尾さんが除名されるのは1967年ですね。
「彼らも寺尾氏が除名される前は、寺尾五郎の本はすばらしいなんて絶賛していたわけです。アカハタもそうです。それが除名された途端にケシカランということになるわけですから、あまりに両極端ですよ。地元の党幹部になぜ除名されてからそういうことを言うんだ、除名される前にそういわなかったんだと言うと、黙っていましたがね」
――寺尾さんの『38度線の北』という本を読んで、ずいぶん在日朝鮮人で帰ろうと思った人が多かったようですね。
「その責任は大きいと思います」
――死ぬまで謝罪のことばを発することもなかったですね。
「あの人は想像たくましい人で、1を10くらいに解釈できる人で、話はおもしろい人でしたよ。寺尾五郎の講演会はみな最後までじっと聞いてくれましたね。ふつうの共産党の話というのは、原理原則みたいなことしかいわないわけですが、あの人は北朝鮮の話をするにしても聴衆のレベルに合わせて巧みに話していましたから。その意味では才能のある人だった。ただ、共産主義という観念を最後まで大事にもっておったのがあの人の限界だったんでしょうね。根っからのマルクス主義者で、観念の世界に生きているようなところがあった」
――要するに寺尾さん個人の問題というよりも、社会主義、共産主義という思想の問題だと。
「そういうことです」
■日本人妻の生存数
――帰国した1800人の日本人妻のうち、現在、何人生存しているとお考えですか。
「私の推定では、生き残っているのは300人くらいだと思います。最初のころたくさん帰りましたけど、もう40年以上たちますからね。当時、20代後半から30代の人が多い。あの社会では女性は50代の半ばで亡くなっていくんですよ。監視対象ですから精神的に厳しい生活でしょう。向こうで生まれ育っていればなんとも思わないけれども、日本に生活して、独裁体制の監視みたいなところにいくと耐えられない。扱い方は犬畜生と同じでしょう。もし生きておっても、おそらく300人くらい」
――多く見積もった数ということですね。
「そうです」
――少なく見積もって100人くらい?
「そうですね。だからそのなかの何人かを3回にわけて帰したわけです。あれは特別の“宣伝隊”です。向こうが選りすぐった宣伝隊ということもあって、日本の家族は半分以上受け入れないですね。来ないでくれと」
――やはり当時の帰り方に問題があったと。
「朝鮮人と結婚するときもいろいろあったでしょうが、何よりも帰るときに、親はほとんど反対しましたからね。向こうにいけば“地上の楽園”だと信じて、家族の反対を押し切って帰った。私が知っている日本人妻はみんなそうです。いわば実家のほうから縁を切られた格好で帰ったわけです。それが3〜4年たつと、やれ石鹸をくださいとか、お金をくださいという手紙がしつように来る。これは日本人妻だけでなく、朝鮮人同士もそうです。日本人妻の場合、親が生きているときは、親は自分の娘だからほかの家族の中に反対者がいてもまあ年金をもらっていればそのうちの一部は送ってやろうかという気持ちになるが、その親が亡くなれば心配する人もいなくなる。悲劇ですね。向こうにいっても日本人妻は極端に差別され、日本にいる実家からも来てもらいたくないと拒絶される」
■日本共産党の責任
――帰国事業を通じて、共産党と朝鮮総連というのは、より親密な関係になっていきますね。71年に再開するときも、日本共産党は社会党などとともに再開を求めていた事実がありますが。
「日本共産党と北朝鮮の関係がだめになってから、北朝鮮は社会党に鞍替えする。社会党は共産党と違う意味でどうしようもない党で、北朝鮮に利用されちゃって。でも実際は“地上の地獄”だったわけです。自分たちがあれだけ宣伝し、帰国を煽ってきたのに、日本共産党も何も言わないし、朝鮮総連も言わない。その責任たるや、たいへんなものです」
「確かに事業としては人道事業でしょう。しかし、共産党が積極的に関与したのは、相手が社会主義国だったからなんですよ。北朝鮮の政権党である朝鮮労働党との親密な関係で行われたわけですから。これはまぎれもない事実なんです。イデオロギー上の社会主義をさかんに謳歌して、現実に煽ったわけですから。それに対して人道目的でしたといっても、なにをいまさら腑抜けなことを言っているのかということですよね」
――北朝鮮が社会主義国でなければ、日本共産党は積極的に関与していなかったと。
「そう思います」
――当事者にとっては、詐欺に引っかかったようなものですね。
「結果的には、騙したんですよ。(日本共産党と朝鮮総連が)騙した当事者なのですから。騙されたのは帰国した人たちなんです。騙されたほうにも責任はあるが、騙したほうにはもっと大きな責任があると思います」
――これほどの人権問題が40年以上放置されてきた理由をどう見ますか。
「日本政府の大きな責任ですね。いまも日本人妻が差別され、虐待されているわけです。それを知らんふりして今まで来ているわけです。この前の(日朝赤十字の)里帰り事業だって、本来の里帰りじゃないわけですよ。里帰りというのは自由意志で、じかに自分の実家と連絡をとりあって、今年はお盆がいいとか、秋ごろがいいとかいって行き来するものでしょう。あれは“強制送還”みたいなものです。国交正常化していないからできません、というのはとんでもないわけです。日本政府はそういうことをきちんと求めていけばいいわけです。現実に、在日朝鮮人は自由に親族訪問してきたわけでしょう。日本政府が認めているからできるわけです。ところが日本人の家族には同じことができない。要するに、日本政府は北朝鮮の言いなりになってきたわけです。こんな馬鹿なことを政府が許しておくだけでなく、帰国事業に積極的に関与した共産党なども黙っている。もう、これは犯罪ですよ」
――国交正常化には拉致被害者だけでなく、日本妻問題の解決も不可欠だと。
「もはや1800人の大半が亡くなっている状況では、あまりにも遅い。しかしやらないよりはずっといいでしょう」
(取材/2002年11月)
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