第五章 善意の批判者をパージして成り立つ日本共産党
〜民主主義とほど遠い「別世界」の政党〜
■北朝鮮帰国者の救出運動に加わった元「赤旗」記者
日本共産党がこれまで拉致事件の解明を妨害し続け、最後まで“疑惑の段階”と主張して拉致問題解決に「冷淡」だった事実はすでに述べてきたとおりである。さらに責任を負うべき北朝鮮への帰国事業についても、総括を行うこともなく、帰国者救済の動きすらまったく見せてこなかったことも見てきたとおりである。
拉致問題では、兵本達吉氏という、問題解明にもっとも熱心であった国会議員秘書を「除名」した。うらには、同じ社会主義をもつ北朝鮮の不祥事を自ら明かしたくないという“打算”が根強く横たわっていた。
実は、共産党は、拉致事件に熱心であった党員に妨害を加えただけでなく、帰国事業の誤りを実感し、帰国者救援活動を行ってきた“善意の党員”の行動にまで《妨害》を加えていた。だが、この事実は意外とあまり知られていない。
妨害を受けた張本人は、萩原遼(ペンネーム)氏。元赤旗記者で、かつて同紙の平壌特派員をつとめたこともある、朝鮮問題通として知られる著名なジャーナリストである。
本人が書いているところによれば、萩原氏は、赤旗外信部の副部長だった88年に編集局長から突然、理由も通知されることなく「解任と「異動」」を言い渡され、納得できずに離職したという。
その後、アメリカにわたり、公文書館に通い続けて、朝鮮戦争の内幕を記した名著『朝鮮戦争――金日成とマッカーサーの陰謀』を著したほか、98年11月に出版した『北朝鮮に消えた友と私の物語』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。ますます名前を知られるようになった。
同氏は、70年代はじめ、赤旗平壌特派員として、北朝鮮の現状をつぶさに知る。59年に始まった帰国事業によって萩原氏の友人も多くが北朝鮮に帰っていたったが、その後驚くべき悲惨な現状を目にし、救済運動にかかわるようになった。
同氏は著書『朝鮮と私 旅のノート』(文春文庫)の中でこう記している。
「帰国運動から35年。私もそれを支持した一人である。何人かの親しい在日の友人たちをかの地に歓送した。しかしそこは彼らには地獄であった」
「巨大な虚偽の社会であった。韓国にたいする過度の警戒心と敵愾心があおられ、スパイ探索の網の目がはりめぐらされ、監視と密告と猜疑と恐怖の地獄であった。そのなかで資本主義国日本から帰った在日朝鮮人は全員が要監視対象にされるのは当然のなりゆきであった」
「帰国在日朝鮮人とおなじく私も当初、社会主義朝鮮にあこがれ、これを称揚した。しかしその後この国が大きく変質し、恐怖の地獄と化した以上、ここで苦しむ人びとの救出もまた避けられない運命だと思っている」
こうした思いから、萩原氏は、94年に東京で結成された「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」に加わったという。萩原氏の思いは次のようなものだった。
「赤旗離職から6年あまりたち、58歳になった(筆者注・文庫本になる前の原著『「朝鮮戦争」取材ノート』が発刊された95年段階)。私の人生の持ち時間はさほど多くはない。体力的にもやれることは限られている。いまやらねばならないと思っていることは、朝鮮民主主義人民共和国に帰国した在日朝鮮人10万人と、朝鮮人の夫とともにかの地に渡った日本人妻数千人の一日も早い救出である。日朝の国交正常化も遠くない。この機会に帰国者全員の一時親族訪問と日本人妻の里帰りをとりあえず実現しなければならないと考えている」
その上で、萩原氏は社会主義というものが何であったのか、これらを分析し、総括しなければならないと訴えている。説得力ある文章なので、そのまま引用する。
「北朝鮮だけではない。スターリンのソ連、毛沢東の中国、ポルポトのカンボジア、ホーネッカーの東ドイツ、チャウシェスクのルーマニア。すべて同時代のできごとである。当初社会主義をかかげて出発しながら、ゆきついたところは虐殺と強制収容所と相互監視、密告、猜疑の地獄であった。なぜそうなったのか。なにがそれを許したのか。なぜ中途で是正できなかったのか。人民の力はそれほど無力なのか。元社会主義国の人民と世界の共産党はこれらの疑問に答えなければならない。これらを分析し、総括する義務がある。その徹底した分析と総括だけが、こうした悲劇の再発を防止する後世への教訓となる」
きわめてまっとうな意見だが、現役の日本共産党員から発せられたものだけに重みを感じる。だが、肝心のボールを投げられた形の日本共産党は、さきの拉致問題における兵本氏へと変わらない対応を示した。
■萩原遼氏が日本共産党から受けた“仕打ち”
元「赤旗」記者の萩原遼氏は『朝鮮と私 旅のノート』で、この本の原著となる『「朝鮮戦争」取材ノート』について、“三つの十字架を背負った本”と形容して、その意味を説明している。
萩原氏が88年、理由を告げられることなく、赤旗外信部副部長を突然解任されたことはすでに書いたとおりだ。それに抗議して、同氏は即座に辞職している。本部専従職員を自らやめるということは、共産党においては“反革命”を意味することといわれるが、それ以来、萩原氏は党幹部からさまざまな嫌がらせを受けることになった。
その一つが、萩原氏の書いた著作を、赤旗紙上で絶対に紹介しない、載せないという嫌がらせである。たとえばこの『「朝鮮戦争」取材ノート』は95年に、京都市の「かもがわ出版」という小さな出版社から出ている。世間的には“共産系”とされている出版社だが、この著作も、赤旗への広告掲載がすべて拒否された。もともと同社の出版物は、赤旗読者を主な読者対象にしているという。そこへきて、もっとも影響力のある「赤旗」が広告を拒否したのである。その結果、この本はわずか3000部しか売れなかったという。
その他の『朝鮮戦争』(文藝春秋)や『ソウルと平壌』(大月書店)が文庫本とあわせてそれぞれ10万部以上売れていることからすると、あまりにも少ない部数だった。
それだけではない。
同氏は98年に出版した『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したが、そうしたニュースの掲載さえ、赤旗は一切無視した。
普通に考えれば、自らの新聞から巣立った記者が、ノンフィクション界のもっとも権威ある賞を受賞したのである。大々的に宣伝したらよさそうなものだが、赤旗の“仕打ち”は徹底していた。
萩原氏は帝国ホテルでおこなわれた大宅壮一ノンフィクション賞の授賞式で、40人の招待者の枠を与えられたので、気安い間柄の党員に声をかけてみたが、みな恐がってだれも来てくれなかったとのエピソードを紹介している。その上でこう書いている。
「不愉快なことこのうえないが、これが現実である。そのときに感ずる党の偏狭さ、懐の狭さ、猜疑心の強さ。党から要注意人物と烙印をおされた者を村八分のように避けたり、おびえたり、敵視する風潮、理由もわからぬままに上からいわれれば盲目的に従う党員の体質をあらためて実感した」
私見だが、体質的にいえば、北朝鮮も日本共産党もさしてかわりない。共産主義社会は、息のつまるような閉鎖的な社会である。萩原氏は書いている。
「こんなことでは幅広い人たちに受け入れられる市民の党になるにはまだ道は遠いなあとつくづく思う」
まっとうな意見だろう。
■拉致調査だけでなく、帰国者救出運動も《妨害》
さらに、同氏が共産党内にあって要注意人物と誤解されるきっかけとなったのは、心ない「赤旗」報道であったとも紹介している。94年12月10日付の赤旗に、小さな記事が掲載されたことがきっかけだった。
そこには「『生命と人権の集い』での元赤旗記者の講演について」という見出しで、萩原氏の講演について、赤旗とは何の関係もありませんという旨、告知していた。
つまり、北朝鮮帰国者の救済に市民運動としてかかわっていた萩原氏は、あるときこの会での講演をたのまれた。そのとき、肩書きが“元赤旗記者”となっていた。この件について、関係者から赤旗に対し、どのような関係があるのかという問い合わせがいったという。それに対し、赤旗が、わざわざ紙面上で回答したものだった。
赤旗記事には、次のようなくだりがある。紹介しよう。
「この問題(※帰国者問題)では日本共産党にも『重大な責任』があるとの同会の主張については、日本共産党は人道的立場から当時の在日朝鮮人の帰国を支持、協力したのであって、こうした主張を受け入れることはできないと明確に回答してきました。元赤旗記者が講演するからといって、本紙ならびに日本共産党がこの集会と関係があるわけではありません」
これに対し、萩原氏は「こんなことをわざわざ『赤旗』を通じて全国に周知させる理由がどこにあるのか」とすぐさま抗議している。萩原氏はこの会が、日本共産党に「重大な責任がある」と主張しているとの指摘は事実誤認であることなどを述べた上、こうした記事が掲載された意味を次のように説明している。
「世間一般の人には理解できないことだろうが、日本共産党内にあって、『赤旗』で名指しでこう書かれたら『萩原は党とは無関係な人間』とうけとられる。そこから次々に飛躍して、萩原は党を離れた人間、反党分子、除名者というように広がっていく」
そうした空気は、その後党内に広がったらしい。萩原氏をよく知る気心のしれた仲間たちさえ、同氏を敬遠するようになっていったという。
萩原氏はこのような共産党の体質についてこう書いている。
「市民団体である私たちの会に一人や二人共産党に反感をもつ人間がいるとしても、それは世間ではよくあることだ。それにたいし過剰に反応し、会全体を敵視し、『赤旗』でわざわざ全国に周知させる日本共産党の雅量のなさは、無党派の人たちとのつきあいを重視するという方針にも反している。もう少し余裕のあるおおらかさをそなえねばふつうの市民との交流はむりだ」
これもごく正当な意見だ。要するに、日本共産党は拉致解明を妨害しただけでなく、帰国者救出運動への関与さえ、きわめて神経質に反応していたわけだ。これも《妨害》というほかない行為であろう。
ただ一点、今も党籍をもつ萩原氏は日本共産党に帰国事業の責を負わせるつもりはないようだが、客観的事実にのっとってみれば、その点は首肯できない点である。
■兵本達吉氏への「査問」風景
日本共産党の非民主的体質は、戦前からつづく「査問」という恐怖の制度にも象徴される。用件も知らせず突然、党本部に呼び出し、何時間も缶詰めにして、同じことを繰り返し聞く。警察の取調べとほとんど変わるところはない。それを公権力ではなしに、ふつうの民間機関が行っているところがこの制度の特徴である。
戦前は肉体的暴力、つまり拷問も行った。事実、宮本顕治氏は同志に対する過酷な「査問」で相手を死にいたらしめている。そのため、彼は治安維持法違反だけでなく、傷害致死罪も加わって、刑務所に入った経緯がある。
戦後、さすがにそのような暴力はなくなったとはいえ、その体質はいささかも変わるところはない。たとえば兵本達吉氏への20時間におよぶ「査問」にしても、その“異様な風景”が浮かび上がってくる。その場面を、兵本氏が書いたものから再現してみよう。同氏が『文藝春秋』(2000年3月号)に書いた文章からの引用である。
「6月3日の朝、参議院で、日本共産党の参議院の事務局長を通じて、代々木にある党本部に出頭してほしいとの連絡があった。事務局長に聞いても、呼び出しの理由ははっきりしなかった。‥‥私の場合、北朝鮮によるによる日本人拉致問題を長く追及しており、党の指導部から『ちょっと事情を聞かせてください』と呼ばれることは少なくなかったので、それほど気にもかけていなかった。しかし、党本部の玄関に入って、受付で待っている間に、ちょっと様子がおかしいことに気が付いた。何となく構えるような緊張した雰囲気が漂っているのだ。
ともあれ受付に到着を告げると、受付が統制委員会に電話をかけた。統制委員会といえば、党内の規律を取り締まる委員会だ。私は首をかしげた。統制委員会からお叱りを受けるようないわれはないはずだ。
ややたって二階の会議室に向かうように言われた。会議室では5人の男が並んで座り、私を待ち受けていた。私はたったひとりで、彼らと向かい合う席に座らされた。そのうちの4人はいずれもよく見知った人物だった。まず、統制委員会の責任者である小林栄三。共産党の法規対策部の部長を長く務め、宮本顕治秘書の経験もある。我々の間で、冗談交じりに『代々木のべリア』と呼んでいた人物だ。スターリンの片腕として粛清を担当したベリアある」
兵本氏への「査問」という名の“暗黒裁判”は98年、こうして始まった。ここで兵本氏はいきなり「君は警察のスパイだ」と宣告されることになる。兵本氏は最初は冗談だろうと思って笑っていたが、彼らは本気だった。兵本氏は、「日本共産党において、『スパイ』のレッテルをはられたら、それは死刑を宣告されたに等しい」とも書いている。
兵本氏への査問は次のような言葉から始まった。
「君の党員権を三カ月停止する」
私が座るなり、小林が切り出した。依然として事態が把握できず、
「どうしてですか」
「まあ、君自身が分かっていることだろう」
と小林に言われても、私には「分かりませんが」と答えるほかない。すると小林は断定するように言った。
「分からないはずがない。君は警察のスパイだ」
あまりにも突拍子もない話に、私は思わず笑い出してしまった。共産党においては、「スパイ」という概念は、融通無碍といおうか、いくらでも拡大解釈が可能である。
このとき、訊問の8割は、“代々木のベリア”小林栄三氏が行ったという。兵本氏が「私がスパイだという証拠があるのか」と問うと、「我々がどうして証拠を集められるんだ。証拠なんかあるわけがないじゃないか」と言い返してきたという。要するに、中世の時代の“魔女狩り”や“暗黒裁判”となんら変わることがないのである。
この調子で5日間にわたって計20時間、「査問」は続けられた。
査問する側は「もう正直に本当のことを言ったらどうだ」と同じことばを何時間も繰り返して、ねちねちと迫ってくる。不毛な繰り返しが延々とつづいた。
そのときの心境を、兵本氏はこう振り返る。
「『正直に話せ』といわれて、僕は『とんでもない』といったんですよ。終いには私のほうが怒鳴りあげたくらいです。このときの私の態度が悪かったと向こうは思っているんでしょう。徳川時代のお白州みたいにヘヘーッと向こうのいいなりになれば、『訓戒処分』とか『党員権3年停止』くらいで終わったと思うんですが、私のほうがえらい剣幕で怒鳴りあげましたから、びっくりしたんじゃないですか」
「査問」では最初から最後まで、拉致調査における兵本氏の行動が問題にされたという。兵本氏は一つひとつ理由をあげて否定したというが、同氏が書いているところによれば「意外な反応があった」ようだ。
「査問の責任者である小林が『党員の中には、年を取ったり、病気になったりして、活動もできない、かえってみんなに迷惑をかけるだけだから、党を辞めさせてもらいたい、という同志もいる。それでも最後のところで思い止まって頑張っているんだ』と言ったかと思うと、急に声を挙げて泣き始めたのである」
大のおとなが査問の最中に泣き出したというのだ。しかも、「査問」を行う側がである。
以下は兵本氏の回想だ。
「小林栄三という人は、病気で精神状態もちょっとおかしかったんじゃないかと思いますね。泣いただけじゃないんですよ。『文藝春秋』では書かなかったけど、私がすごい剣幕でどなり上げたときですが、小林氏がはいていた白いズボンに、下に向かってミミズのような一本の線が走ったんですね。あれっと思ってみていたら、小便をちびっているんです。だいたい査問受けて、査問委員を怒鳴ったのは、日本共産党の歴史始まって以来、私が最初らしいです」
異様な光景である。しかも罪状は、濡れ衣に近い。兵本氏が『文藝春秋』で紹介している共産党統制委員会による兵本氏への「除名通知書」を引用しよう。
「あなたは1998年5月18日、赤坂の料理屋『まき田』で警察庁警備公安警察官と会食し、自分の国会秘書退職後の『就職』の斡旋に関して『面接』を受け、自分の『採用』を事実上依頼する対応をしています。これは警備公安警察がかかわる機構にみずからが参加する意思を表明したものであり、日本共産党員として許されない行為です。しかも、あなたは、党からの指摘を受けながら、自己の行為を正当化し反省することをしませんでした」
この“除名通知書”では、兵本氏が公安警察官に自分の就職斡旋をお願いするために料亭で面接を受けたとして、「日本共産党員として許されない行為」と断定しているが、兵本氏の言い分は、まったく異なる。本人の名誉のためにも、同氏が『文藝春秋』(2002年12月号)に簡潔にまとめた実際の《真相》の部分を引用しよう。
「第一に、私が会ったのは警察官だけではない。その場には内閣官房や外務省の官僚もいた。第二に、警察関係の職の斡旋を依頼したかのように、わざと誤解を与える書き方がなされているが、私が紹介された仕事は拉致問題を追及する政府のプロジェクトチームへの参加であって、そこには警察庁ばかりでなく各省から担当者が派遣される予定だった。“問題”にされた警察官も拉致問題の専門家である。第三に、私から採用の依頼などしていない。働いてほしいと言ってきたのは政府当局者のほうである。文書からは『プロジェクトチーム』や『外務省』、『内閣官房』といった言葉が意図的に消されている。それはことさらに警察との関係を強調するためだ。共産党の宿敵である警察との不明瞭な関係を印象づければ、私を除名することができる」
兵本氏は主張は極めて具体的で、一貫している。一方、共産党側の反論は、全く説得力がない。「警察のスパイ」とまるでオウムのように繰り返しているだけである。
■秘書給与“ピンハネ問題”の行方
日本共産党の特異体質は「査問」という制度だけではない。国会議員から地方議員にいたるまでの各級の議員をはじめ、国会議員秘書といった《公費》で生活しているはずの立場の者たちもみな、支給された給与をいったん党に納め、それを分割して受け取るという“独自の給与システム”がある。
2002年の通常国会では、この秘書給与の問題で、社民党の辻元清美代議士や自民党の田中真紀子代議士が議員辞職に追い込まれたが、共産党の場合は、個人でやっているのではなく、党全体として、連綿とこのような“詐取的行為”をおこなってきた。
『正論』(2002年6月号)では、兵本氏と元共産党国会議員秘書で会計事務所職員の野口紀雄氏が対談をおこなっている。野口氏はこう語っている。
「共働きで家計を支えてきた妻が10年前に急死しました。私の退職金で何とか子供たちの学費にあてようと考えていたら、党は全額よこせという。これに対して『事情もありますから』と断ったために除籍になったわけです」
野口氏は家庭の事情から、得るべき当然の退職金を、党にカンパするように強要され、それを断ったために党を「除籍」になったのだという。事実なら、ひどい話である。
兵本氏も、日本共産党の“公費ピンハネ”に関する言い訳の変遷について、こう述べている。
「鈴木宗男氏は『疑惑の総合商社』といわれていたけど、私は日本共産党は『ウソの回転ドア』だといっています。‥‥‥その時々の世の中の流れとか、あるいは私たちが告発しているから検察庁がどんな動きをするかによって罪を逃れるためにどんなことでもやりますよ」
そして「秘書たちが『自発的に』毎年100万円も200万円も『寄付』するわけがない」と指摘している。
これら、日本共産党のピンハネ・システムにかんする問題について、兵本氏はすでに刑事告訴した上、事情聴取も受けており、東京地検が今後どのように動くかが注目されている。
■“除名”と“粛清”の党史
そもそも共産主義政党といえば、その裏にあるのは、いずこの国においても“粛清”の歴史だ。共産党が権力を握るとき、その傾向はいっそう顕著になる。ソ連、中国、北朝鮮、どこも変わらない。日本共産党のように権力をもたない場合には、不必要な人間にレッテルはりすることで、“除名”という形で党内権力を行使する。
日本共産党も、その歴史をふりかえってみれば、“除名”の連続の歴史だ。
最たるものは戦後24年間にわたって日本共産党の議長を務めてきた野坂参三氏が、1992年、ソ連のスパイ容疑で“除名”された事実だろう。50年以上前の行動をとがめられて、なんと100歳のとき除名されているのだから、驚かざるをえない。野坂氏は戦後ずっと議長という共産党トップの位置に座った。名誉議長の時代も含めれば、その期間は34年にものぼる。
また、戦後まもなくの志賀義雄氏などの古参幹部の除名をはじめとして、1978年には、戦前からの活動家で党幹部であった袴田里見氏を、戦前のスパイ容疑を持ち出して“除名”するに至っている。袴田氏は戦後の日本共産党を宮本顕治とともにつくりあげた一人であった。権力維持のために、批判意見を述べる者や都合の悪い人物を抹殺し失脚させるのは、世界の共産主義政党だけでなく、日本共産党にも共通した特徴である。
兵本達吉氏もそうした犠牲者の一人であり、これからもそのような被害者は増える一方だろう。
いうなれば、良識ある人びとを“パージ”することで、日本共産党は成り立ってきたともいえる。
このような政党に権力を与えるのは、たいへん危険なことである。何より、現在、病床にあると伝えられる宮本顕治氏や、不破哲三氏でさえ、将来は“除名”される可能性はじゅうぶんにある。権力バランスの変化によって、そのような事態はいとも簡単に作り出せるからだ。
自ら“尻尾切り”をおこないつつ続いてきた日本共産党――。知れば知るほど、この政党の未来は限りなく“暗い”としかいいようがない。
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