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『拉致被害者と日本人妻を返せ〜北朝鮮問題と日本共産党の罪』

第四章 「兄弟党」の契り
     〜“革命の同志”としての北朝鮮と日本共産党〜


在日朝鮮人の助力で戦後再建された共産党
 かつて日本共産党と朝鮮労働党が「兄弟党」として密接なかかわりをもってきたことは歴史的事実である。後年、1980年代になって、この関係は断絶に向かうが、50年代から60年代、また70年代前半にかけて、同党の“蜜月関係”はずっと続いていた。
 もともと、マルクス・レーニン主義を共通とする“同志”である。そこには、戦後の特殊な事情も介在していたようだ。
 戦後、日本共産党員の中で在日朝鮮人の占める比率が異常に高かった時期がある。少なくとも「党員全体の3分の1はいた」という人もいるほどだ。終戦直後の中央委員会にも、10人前後の中央委員のなかに2人の在日朝鮮人がいたくらいだ。
 終戦まもなく、日本共産党は過激な革命路線に突っ走り、“火炎瓶闘争”などで世上を混乱に陥れていくが、そのとき暴れまわったなかに、在日朝鮮人も多く含まれていた。
 戦中、虐げられていた植民地出身者は、日本の「終戦」によって、戦勝国となった。いきおい体制転覆、社会主義建設を求める政党集団が組織されるなかで、在日朝鮮人たちも活躍した。
 第三章で取り上げた『38度線の北』の著者である寺尾五郎氏は、治安維持法違反で入っていた刑務所を出るとまっさきに日本共産党本部にかけつけ、職員となって働いた人だが、同氏が書いた『朝鮮・その北と南』(新日本出版社、1961年)で、在日朝鮮人への思いを次のように記している。
 同氏が満州で憲兵隊に捕われ、日本で牢獄に入れられたとき、多くの朝鮮人も同じ囚人にいたという話から、終戦のころの回想に移った場面である。時代の雰囲気をよくあらわしていると思うので引用してみたい。

 九段の憲兵隊司令部で8月15日を迎えた。しかしわれわれは釈放されなかった。そこから警視庁に移管され、豊多摩刑務所に送られた。そこで10月10日のいわゆる政治犯釈放に関するマッカーサー指令ではじめて出てきた。その日は冷雨が降りしきっていた。
 わたしは生まれてはじめて赤旗を立てたトラックを見た。釈放された政治犯を迎える人びとであった。わたしは3台のトラックの一番後の車に、手とり足とりで乗っけられた。みんなが「ご苦労、ご苦労」といたわってくれた。顔見知りの人間はもとよりただの一人もいない。それだけではない。わたしの乗せられたトラックには、ただの一人の日本人もいなかった。わたしに外套を着せかけ、そのうえさらに雨合羽をかけてくれたのも、熱い茶を飲ませてくれたのも、そして痩せこけたわたしの尻のしたにシーツをたたんで敷いてくれたのも、なにもかにも、みんな朝鮮人だった。見も知らぬ朝鮮人だった。
 わたしはその夜、東京で泊まる場所さえなかった。5、6人の朝鮮人が「自分のところへ泊まれ」と一様にいってくれた。そのうちの一人は、自分の兄貴が群馬県で温泉宿をやっているから、そこで1カ月くらい静養しろ、とまでいってくれた。わたしは一銭も持っていなかった。かれは金は全部自分が負担するといった。
 実際にはその夜、かれらの世話にはならなかったのだが、そのトラックのうえでわたしにそういってくれた朝鮮人たちは、わたしの名前も素性も、また知らないままにそういってくれたのである。
 天皇制とたたかい、帝国主義をたたかっているということだけが、友情のきっかけであった。名前さえ知らない、いま会ったばかりの朝鮮人と日本人のあいだの友情であった。
 日朝友好などという運動が、まだ想像もできなかった頃の日本での、私的な思い出話である。

 終戦時の朝鮮人と日本人とのかかわりを示す、一つのエピソードであろう。
 実際、戦後の日本共産党の「再建」は、在日朝鮮人の助力なしにおこないえなかった。戦後まもないころの日本共産党を指導した徳田球一が監獄から出てきたときも、赤旗をもって出迎えた人たちのほとんどが朝鮮人だったといわれている。
 ジャーナリストの萩原遼氏は『北朝鮮に消えた友と私の物語』のなかで、日本共産党と在日朝鮮人の関係をこう書いている。
 「朝鮮人共産主義者は、当時のコミンテルン(ソ連を盟主とする共産主義者の国際組織)の一国一党の原則にしたがって日本共産党に加入していた。一国一党の原則とは、一つの国に前衛政党は一つしかあってはならないというものである。コミンテルンは1943年に解散したが、この原則は戦後もそのままうけつがれて、在日朝鮮人共産主義者も日本共産党に加入していた。加入したというよりむしろ、かれらが戦後の日本共産党の再建に大きく寄与した」

日本共産党員で占められた朝鮮総連幹部
 戦後まもなく、在日朝鮮人たちの政治団体として「朝鮮人連盟」が結成される。現在の朝鮮総連の前身となる組織である。当時、この団体は、日本共産党の支配下にあった。
 その後、紆余曲折をへて、1955(昭和30)年に朝鮮総連が結成される。つまり、もともと朝鮮総連は、日本共産党に所属していた社会主義者、共産主義者が結成した団体なのである。
 その日本共産党と朝鮮労働党が話し合いをおこない、当時日本共産党に所属していた在日朝鮮人も、日本共産党をはなれ、朝鮮労働党に属するという方針変更をおこなった。その結果、朝鮮総連は、北朝鮮と日本のパイプ役の団体になっていった。
 ただ、朝鮮総連の幹部は、朝鮮労働党に移ったとはいえ、もともとは日本共産党員である。その後も、日本共産党とは「兄弟党」として、密接なつながりを維持していった。
 この点、出自からして、日本共産党と朝鮮労働党との関係は、日本社会党のそれとはまったく異なるのである。
 実は、この朝鮮労働党に組み込まれた朝鮮総連と、日本共産党の蜜月関係を利用して考えられたのが、在日朝鮮人の帰国運動だった。『北朝鮮という悪魔』で前文を書いている佐藤勝巳氏の文章によると、帰国運動を考え出したのは「金日成その人」だったという。同書によれば、「金日成は、在日朝鮮人を北朝鮮に帰国させれば、それを人質として在日朝鮮人60万人を影響下におさめることが出来ると見通していた」と書いている。
 その結果、帰国者たちは、ていのいい“人質”にされてしまったのである。
 “人質”であるがゆえに、日本に残された家族の一部は、北朝鮮工作員による日本人拉致の協力者に仕立て上げられていったのである。
 これらの歴史的経緯から見ても、帰国運動に果たした日本共産党の役割があまりにも重要であることがわかるだろう。
 同党の志位和夫委員長は『読売新聞』(2002年11月13日付)のインタビューのなかで、「50、60年代にかけて帰還事業が進んだのは人道的意味であり、超党派で支援した」などとぬけぬけと言い抜けているが、責任逃れもいいところである。

「青瓦台事件」に見る共産党見解の《変遷》ぶり
 第二章で、拉致問題に関する日本共産党の幹部発言の豹変ぶりをあつかったが、似たようなことは、過去にも起きていた。たとえば、1968年、韓国大統領官邸のある青瓦台近くに現れた30人規模のゲリラ集団が、警察の不審尋問に機関銃を乱射し、民間人を含む5人を射殺するという事件があった。
 このとき、一般マスコミは北朝鮮武装ゲリラのしわざと報じたのに対し、日本共産党機関紙『赤旗』は、「事件をめぐるデマ宣伝」と見出しをたてて、「『北朝鮮武装ゲリラの侵入』だといっているのは、アメリカ帝国主義と反動勢力がねじまげたデマ宣伝です」(1968年1月31日付)と主張していた。
 正確な事実関係でいえば、その後、武装集団は北朝鮮から送り込まれた武装グループであることが発覚。日本共産党はここでも朝鮮労働党との「兄弟党」として、冷静な視野でものごとを判断することができなかったのである。だが後年、不破議長は『北朝鮮覇権主義への反撃』(新日本出版社、92年)でぬけぬけとこう語っている。
 「後日のことですが、青瓦台を襲撃した部隊が、北から送り込まれた特殊部隊であったことは、ただ一人生き残って逮捕された隊員が裁判で証言した内容からもあきらかになったことです」
 この過程においても、自らの《誤った見解》の総括はなされていないばかりか、歴史を改竄しようとさえしている。
 同党はこれまでにも、共産主義ゆえにものごとを正視眼で見ることができないという根本的な誤りをくりかえしてきたのである。しかも、たとえ間違っても、いっぺんの総括、反省もないのがこの党の特徴である。

“関係修復”に動いた日本共産党
 日本共産党の主張によれば、北朝鮮の無法に対して、もっとも厳しく批判してきたのが日本共産党であるという。たしかに70年代以降、金日成の個人崇拝が強まったことなどを批判し、83年のラングーン事件や87年の大韓航空機爆破事件で、厳しく批判してきたことは事実である。
 だが90年代の半ば以降、“無法ぶり”という意味ではなんの変化も見られなかった北朝鮮・朝鮮労働党と、日本共産党は“関係修復”に動き出した。
 事実、2000年の党大会では、朝鮮総連を来賓として招いている。党大会に先立って行われた不破議長と朝鮮総連の南昇祐(ナムスンウ)副議長らの懇談では、南副議長が「朝鮮労働党と日本共産党の友好的な関係をもてる日がくることを期待し希望します」と述べると、不破氏は「私どもも共通の期待と希望をもっています」とはっきり述べている(『しんぶん赤旗』2000年11月21日付)。さらに翌2001年には志位委員長は18年ぶりに朝鮮総連の全体大会に来賓として出席。志位氏はあいさつの中で交流再開の経緯を報告し、連帯のメッセージまで述べているのである。
 その間、拉致問題について、共産党トップの不破議長は拉致問題を「棚上げしたほうがいい」とするかのような発言を繰り返し、拉致被害者家族らの顰蹙を買った。その裏には、かつての「兄弟党」である朝鮮労働党と“寄りを戻す”動きがあったわけである。
 だからこそ、兵本氏のような存在が邪魔になったのだ。
 だが冷静に考えてみて、こうした長年にわたる日本共産党の党外交の姿勢とは、いったい何なのだろうか。そこには理念というよりもむしろ、自分に都合のいいように、その時々の状況のあわせて変化する動きとしかうけとれない。朝鮮労働党の“本質”は何ら変わっていないにもかかわらず、外部環境の変化に合わせて“寄り”を戻そうとした。その日本共産党が“拉致の事実”が明るみになるや“北朝鮮の非道をもっとも厳しく批判してきた”などと宣伝しているのである。
 日本の民間人を多数拉致した疑いが濃厚にもたれていた国家と、その問題を棚上げして関係を修復しようとしたその行動のハレンチは、国民にどう評価されればいいのだろうか。
 まして同党が常に“清潔さ”を前面に出し、“筋のとおった政党”を《宣伝文句》としていることから考えると、その理念なき行動の姿は率直に批判されていかるべきであろう。



 
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